バイブル・エッセイ(863)誇るべきもの

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誇るべきもの

 このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテア6:14-18)

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」とパウロは言います。イエス・キリストと共に自分を十字架にかけ、神にすべてを捧げたわたしたちに、もし誇るものがあるとすれば、それはわたしたちを救ってくださったイエス・キリストの偉大さ。神の愛の偉大さだけだということでしょう。十字架にかけられたわたしたちには、他に誇るものなど何もないのです。
 ですが、わたしたちはつい自分のことを誇ってしまいがちです。わたしであれば、たとえば説教するとき、人前で話す機会を与えられたときなど、特に注意しなければなりません。気をつけないと、神父という立場を与えられた自分を誇ったり、神ではなく神を信じている自分がどれだけ素晴らしいかをとくとくと語ったり、神の名においてこれまで自分が上げた実績を自慢したり、そのようなことが起こってしまいがちだからです。福音を宣教するために遣わされたはずなのに、福音ではなく、自分を宣教してしまう。そんなことがよくあるのです。
 わたしたちが誇るべきなのは、イエス・キリストだけだということを忘れないようにしたいと思います。こんなにつまらない自分を、イエスがどれだけ愛してくださったか。イエスから愛されることによって、自分の人生がどれだけ変えられたか。喜びに満ちたものになったか。わたしたちが語るべきなのは、そのことだけなのです。わたしたちは、罪にまみれた自分の人生を十字架につけること、自分の人生をすっかり神に捧げることによって、新しい人生を与えられました。イエス・キリストの十字架によって罪の闇から解放され、まばゆい復活の栄光に照らされて生きる道へと歩み出したのです。そのことの素晴らしさを、情熱を込めて語る。自分のことはまったく誇らず、ただ自分を救ってくださった神の素晴らしさだけを語る。それがわたしたちの使命なのです。
 イエスは、宣教の旅に出る弟子たちに、「財布も袋も履物も持って行くな」と命じました。それは、ただ神への信仰だけを持って旅に出なさいということだったのでしょう。大きな財布があれば、それを持っている自分を誇るかもしれないし、袋があれば、その中に入っているものを誇るかもしれません。ですが、はだしで歩く泥だらけの自分、徹底的に惨めな自分、ただ神によって救われた自分しか持っていないなら、誇るべきものはただ神だけです。こんな自分でさえ、神は救ってくださった。その素晴らしさを語るためには、何も持ってゆく必要はありません。むしろ、何も持っていない方が、わたしたちは福音宣教の使命をよりよく果たすことができるのです。
 実際に、何も持たずに旅に出ること、何の蓄えも持たずに生きることは、現代社会では難しいでしょう。ですが、心はどんなときでも、弟子たちと同じであるべきだと思います。何かを持っていたとしても、それは神が与えてくださったから。そのことを忘れず、何かを持っていたにしても、まるで何も持っていないかのように、すべてを神から与えられた者としての謙虚さだけを持って、福音を伝えてゆくことができるように祈りましょう。