バイブル・エッセイ(774)よい説教者


よい説教者
 エスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイ23:1-12)
 人に教えるだけで自分では実践しようとしない律法学者やファリサイ派の人々について、「そのすることは、すべて人に見せるためである」とイエスは喝破します。どんなに立派な説教をしていても、自分の知識や能力を見せびらかすことだけが目的で、相手のことはまったく考えていないというのです。
 このような説教者の対局にあるのがパウロだと言っていいでしょう。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたを愛おしく思っていた」(一テサ2:7-8)という言葉からはっきりわかるように、福音を語るときにパウロを突き動かしていたのは相手への愛だけでした。パウロは、「自分の命さえ喜んで与えたい」というほどの愛をもって説教したのです。パウロの説教には、神の愛が宿っていたと言っていいでしょう。その愛が聞く人々の心を揺さぶり、動かしたのです。
 これは、わたしたちが宣教をする上で決して忘れてはいけないことだと思います。宣教をするときに、若者を増やして教会運営を安定させようとか、新たな労働力を確保して世代交代を進めようとか、そのような思いでしても、誰も耳を傾ける人はいないでしょう。大切なのは愛をもって語ることです。相手をまるで自分の子ども、家族のように思い、「この人のために何かせずにいられない」という真心に駆られて語りかけるとき、わたしたちの言葉に神の愛が宿ります。その愛だけが、人々の心を惹きつけ、教会へと誘うのです。
 これは、宣教だけに限りません。生活のあらゆる場面で言えることだと思います。たとえば子どもを叱るとき、「父さんはお前のことを思っていっているんだぞ」と言ったとしても、もし「こんなことしては世間体が悪くなる」というような思いが混じっていれば、子どもはすぐにそれを見抜きます。「なんだかんだ言って、結局は自分のためじゃないか」と思って白けてしまうのです。恥も外聞もかなぐり捨て、「自分のことはどうでもいい。ただ子どものためだけに」という気持ちで語るときにだけ、子どもは親の言うことを素直に聞きます。親の心に宿った神の愛が子どもを変えると言っていいでしょう。
 よい説教者は相手のためを思って話し、悪い説教者は自分をよく見せるために話します。大切なのは、話していてるわたしたちの心に「神の愛」が宿っているかどうかです。まずは話す相手の顔を思い浮かべ、その人たちの苦しみを想像して、「その人たちのために、何を語るべきでしょうか」と神に問いかけることから始めたいと思います。