バイブル・エッセイ(952)奥まった部屋で祈る

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奥まった部屋で祈る

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ6:1-6)

「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とイエスは弟子たちに教えました。人からよく思われるために祈るのではなく、人の目が届かないところでただ神のことだけを思い、心からの祈りを神に捧げなさいということです。

 今日の聖書箇所でイエスは、人の目を気にするなということを強調しておられるように思います。人間は、何かよいことをするにしてても、神のためではなく人からよく見られるため、つまり自分自身のためにしていることが多いのです。どんなに神のため、人のためを思ってやっているときでも、心のどこかで「どう見られているかな。かっこ悪くないかな」などと自分のことが入ってきてまう。そんな人間の心の動きを、イエスはよくご存じなのです。

 祈るときでさえそうです。神に向かって祈るのではなく、「あの人はよく祈る人だ」と思われるために祈る、熱心な信者と思われるために教会に通うといったことが起こりがちなのです。そのような思いは、祈りの内容にまで影響を与えます。例えば「〇〇の試験に合格することができますように」などと何かを願って祈るときでも、純粋に「合格して人々のために奉仕したい」という思いだけでなく、心のどこかに「もし落ちたら人からどう思われるだろう。友だちから笑われるのが怖い」というような気持ちが入り込みがちなのです。場合によっては、純粋な気持の方は弱まり、「人に言ってしまった手前、どうしても合格しなければ」という気持ちで祈るということさえありえます。神の前で自分に与えられた使命、奉仕の使命を果たしたいという気持ちが、人からよく見られたいという気持ちによってゆがめられてしまうと言ってもいいでしょう。

 自分の心の奥底からの願い、純粋な願いを神に届けるためには、人の目が気にならないくらい心の奥の部屋、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」てしまうのがよいでしょう。人間の心には深さがあります。欲望に駆り立てられ、「あれもしたい、これもしたい」と願って右往左往する心の下に、本当にしたいこと、心の奥深くからの真実の願いが隠れているのです。心の奥深くに降りて本当の自分の願いと向かい合い、その願いを神に捧げる。それこそがイエスの願っている祈りであり、神が聞き届けてくださる祈りだとわたしは思います。本当の自分と神だけがおられる心の奥深い部屋で、神に語りかけ、神に祈りを捧げるのです。

 心の奥深い部屋には、他人は誰もついてくることができません。戸をしっかり閉めてしまえば、「ああ言われた、こう言われた。復讐してやろう」というような激しい感情の乱れさえ、もうついてくることはできないのです。心の中に「奥まった自分の部屋」を見つけ、戸を閉めて、心からの祈りを神に捧げられますように。

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