バイブル・エッセイ(354)霊に導かれて生きる


霊に導かれて生きる
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」(ガラテア5:13-18)
 肉の望みではなく、霊の導きに従っていきるようにとパウロは言います。そのために最も大切な掟として、パウロは「隣人を自分のように愛しなさい」を挙げました。今日は、この掟について考えてたみたいと思います。
 この掟の前提となるのは、「自分を愛する」ということです。「自分を愛する」とは、どういうことでしょう。何でも自分の思い通りに手に入れ、望みを実現していくことでしょうか。そうではないと思います。なぜなら、そのような生き方をしていれば、かえって自分を苦しめることになるからです。
 お金や名誉、地位などを手に入れれば、それを守るための心配や不安を抱え込むことにもなります。それらを奪ったり、脅かしたりする人たちへの敵意や憎しみも生まれてくるでしょう。すべてを自分の思い通りに動かそうとすれば、自分の思い通りにならない相手にいらだち、いつも不平不満を抱えることにもなるでしょう。仮にすべてを手に入れ、世界を思いのままに動かせるようになったとしても、最後には自分が本当に望んでいるものがなんなのか分からなくなって苦しむはずです。自分の思いのままに生きても、わたしたちは決して幸せになることができません。「自分を愛する」とは、自分の思いのままに生きるということではないのです。
 では、自分を愛するとはどういうことでしょう。それは、自分の思いではなく、神の思いのままに生きるということだと思います。わたしたちに生きる力と意味を与え、あらゆる不安や恐れ、いらだちを取り除いて下さる神の愛と、いつも固く結ばれて生きるということです。そのために、わたしたちは祈る必要があります。神の御旨を祈りの中で、常に求め続けていなければならないのです。自分を愛するとは、神の思いのままに生きること、絶えず祈り続けることだと言っていいでしょう。
 「自分を愛する」ということが分かれば、「隣人を自分のように愛する」ということもおのずから分かるでしょう。隣人を愛するとは、隣人が望むものを何でも与えたり、隣人の思いのままに行動したりすることではありません。隣人の心に本当の幸せが実現するように、隣人の心が神の思いのままに整えられ、神の愛で満たされるようにと願うことです。
 ですから、隣人を愛したいなら、まず祈ることです。神が隣人に何を望んでおられるのか、隣人の救いがどこにあるのか、それを祈りの中で尋ね求めるのです。そうすれば、わたしたちは隣人のために一番よいことをしてあげられるでしょう。隣人を、本当の意味で愛することができるようになるでしょう。
 こうして、「隣人を自分のように愛する」という掟を誠実に守ろうとするとき、わたしたちの生活は霊の導きに委ねられたものになっていきます。肉の思いを実現しようとすれば、わたしたち自身がまず不幸になりますし、隣人も幸せにすることができません。肉の思いに打ち勝ち、霊の思い、神の思いに身を委ねた人だけが、神の大いなる愛の中で幸せに生きられる、そのことをしっかりと心に刻みたいと思います。
※写真…雲海。軽井沢市、離山にて。