バイブル・エッセイ(387)「3つの罪」


「3つの罪」
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:1-6、16-18)
 四旬節は、罪を悔い改め、神に立ち返るためのときです。「わたしは罪なんて犯していない」という人もいるかもしれませんが、ここで言う罪とは、違法行為を犯すということではなく、人間が本来あるべき姿を失っている状態のことです。人々との間で、自分自身との間で、そして、神との間で、本来あるべきあたたかな愛の交わりが損なわれてしまった状態のことを罪と言うのです。罪を悔い改めるとは、愛の交わりの破壊がどれほど、人々の心に、自分自身の心に、神のみ心に大きな苦しみや悲しみを生んでいるかを自覚し、本来の交わりを取り戻すことに他なりません。人々との間の罪、自分自身との間の罪、神との間の罪をそれぞれ振り返ってみましょう。
 まず、自分勝手なふるまいや、思い込み、差別、偏見などによって、どれだけ周りの人々を傷つけているかに気づきたいと思います。普段、わたしたちは周りの人々の痛みや苦しみに鈍感になりがちです。自分のちょっとした一言や、不親切なふるまい、自己中心的な態度がどれほど周りの人を痛めつけ、苦しめているか想像してみましょう。そして、壊してしまった愛の交わりを回復するために行動しましょう。人々に「施し」をするのは、自分の罪深さに苦しみ、そうせずにいられなくなってするのでなければ意味がありません。心から悔い改めて浮かべる笑顔や差し出す手、親切なふるまいこそが、最高の「施し」なのです。
 人を傷つける行動、自分勝手な行動は、自分自身も傷つけています。してはいけないと分かっていながらそんなことをしてしまう自分が信じられなくなり、自分が嫌いになってしまうからです。自分が信頼できない、自分が好きななれないということは、それ自体として大きな苦しみです。自分自身の行動が、どれほど自分自身を苦しめているかに気づいたなら、心の底から神に救いを願いましょう。自分自身に対して誠実であることができるように、自分で信頼できる自分になることができるように願って捧げる祈りこそ、四旬節に一番ふさわしい「祈り」です。
 人々を傷つけ、自分自身を傷つける振いは、神との関係も壊してしまいます。神がわたしたちの罪を見て悲しんでおられるのは間違いないことですし、わたしちは神に対して会わせる顔がなくなってしまうのです。神の悲しみを思い起こし、申し訳なさのあまり食事がのどを通らなくなる。そのような意味での断食こそ、この四旬節に一番ふさわしい「断食」でしょう。
 自分の罪深さに気づいて、人々に「施し」をすること。自分自身を苦しめていることを悔い、心からの「祈り」を捧げること。神への申し訳なさのあまり「断食」することによって、人間としての本来の姿を取り戻すことができるように。人々との間に、自分自身との間に、神との間に愛の交わりを取り戻すことができるように祈りましょう。
※写真…早春の琵琶湖湖畔。