バイブル・エッセイ(415)『命を捧げるほどの愛』


『命を捧げるほどの愛』
 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:13-17)
 イエスが、十字架上での死を予告しています。それは、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」だというのです。わたしたちが救われるために、なぜ十字架が必要だったのでしょう。十字架を見上げることで、なぜ救われるのでしょう。それは、十字架の出来事に、救いに至る道が凝縮されているからです。十字架を見上げることで、わたしたちはその道を知ることができるのです。
 誰かの人生を見ることで、救いに至る道が示されるということが確かにあります。例えば、渡辺和子さんです。先日、宇部教会80周年記念の講演会を依頼するため、信徒の代表者たちとお会いし、30分ほどお話しさせていただきました。話が終わって、帰り道に信徒たちがみな口をそろえて言ったのは、「あの人は、神にすべてを委ね尽くしている」ということでした。話しているうちに、誰もがそのことをはっきりと感じたのです。そのような渡辺さんの生き方から、心の平和や喜び、人をいたわる優しさが生まれていることも明らかでした。渡辺さんと出会うことで、わたしたちは神にすべてを委ねることこそが救いに至る道であることを改めて確信しました。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉も、渡辺さんのそのような生き方から生まれて来たものでしょう。神を信頼し、神が置いて下さった場所で全力を尽くしなさい。自分なりの花を咲かせて、神様を喜ばせなさい。そのメッセージは、渡辺さんの生き方そのものなのです。いま、渡辺さんの言葉は何百万もの人々の心に届き、人々を励まし、導いています。彼女の人生が、救いに至る一つの道しるべになっていると言っていいでしょう。
 イエスの場合は、単に道しるべであるだけでなく、救いそのものです。イエスは、十字架上で、神への愛のため、愛する弟子たちや人々への愛のために、自分の命を捧げました。その愛の中に、救いそのものがあるのです。エスの十字架は、愛する者は、すべての恐れや不安、執着から解放されるということ。愛があれば、死の恐怖さえも乗り越えることができるということ。愛だけが、自分を乗り越えて救いに至る道であることを、わたしたちにはっきりと教えています。十字架を見上げるたびごとに、わたしたちはそのことを思いだし、救いの道に立ち返ることができるのです。
 愛のために捧げられた命は、いつまでも輝き続けます。イエスが死んでも、イエスが十字架上で捧げた愛は生き続けているのです。それが、永遠の命ということでしょう。エスに倣って愛のために命を捧げるとき、わたしたちの命も永遠の輝きを得るに違いありません。渡辺和子さんの生涯が私たちを導く道しるべとなっているように、わたしたちの人生も、後から来る人たちを導く道しるべになることができるのです。
 命を捧げるほどの愛だけが、救いに至る唯一の道。愛のために捧げられた命は、永遠に輝き続ける。十字架称賛の祝日にあたって、そのことをもう一度しっかりと心に刻みたいと思います。
※写真…大阪、万博記念公園のコスモス。