バイブル・エッセイ(966)キリストにつながる

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キリストにつながる

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:1-8)

「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とイエスはおっしゃいます。キリストにつながっていなければ、わたしたちは決してよい実を結ぶことが出来ない。逆に、キリストにつながっていさえすれば、どんな困難な状況にあったとしても豊かな実を結ぶことが出来るということです。

 キリストにつながるとはどういうことでしょう。それは、どんなときでもキリストの愛に心を開いているということだと思います。キリストの愛に心を開き、愛に満たされた心で行動するときにだけ、わたしたちはよい実を結ぶことが出来るのです。たとえば、忙しくて疲れが溜まっているとき、いらいらした気持ちで判断すれば、よい実を結ぶことはできないでしょう。疲れているとき、自分のことしか考えられなくなっているときに、わたしたちは間違った判断をしてしまいがちなのです。

 よい実を結びたいなら、まずキリストにつながる必要があります。「主よ、あなたがいまわたしに望んでおられることは何でしょうか」と祈りの中でキリストに尋ね、神の愛としっかりつながってから行動する。よい実を結ぶためには、必ずそのプロセスが必要なのです。怒りや不安、恐れなどによって乱れた感情に引きずられることなく、心を満たした愛の中で判断すると言ってもよいでしょう。いたわりの言葉、親切、思いやり、ゆるしなど、神さまに喜んでいただけるよい実は、愛の中からこそ生まれてくるのです。

 逆に、キリストにつながっている限り、わたしたちは必ずよい実を結ぶことが出来るとも言えます。どれほど困難な状況に置かれたとしても、愛の源であるぶどうの木、キリストが枯れることはありません。どれほど困難な状況に置かれても、キリストとつながってるかぎり、わたしたちは実を結び続けることが出来るのです。たとえば、コロナ禍の中で先が見通せない、これまで通りのことができなくなってしまった、そんな状況にあっても、何も心配する必要はありません。キリストとつながっている限り、わたしたちはこれまでとまったく変わらず、愛の実を結び続けることができるのです。

 何より大切なのは、「主よ、いまあなたはわたしを通して何をしたいと望んでおられるのでしょうか」と祈りの中でキリストに語りかけ、キリストとしっかりつながることです。キリストの愛で心が満たされるとき、わたしたちの目は、身近にいて苦しんでいる人たちの方に向かってゆくでしょう。心を満たした愛は、愛の少ない方に向かって流れ出してゆく性質を持っているのです。キリストの愛に限界はありませんから、わたしたちから流れ出す愛が途絶えることもありません。キリストとつながっている限り、わたしたちはいくらでもよい実を結ぶことが出来るのです。

 心が乱れ、自分のことしか考えられなくなったとき、愛の実を結ぶことが出来なくなったときは、キリストというぶどうの木を思い出しましょう。自分がキリストというぶどうの木の枝の一つだと想像するだけで、心は落ち着いてくるでしょう。静かな心でキリストとつながり、愛の実を豊かに結ぶことが出来るよう共に祈りましょう。

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