バイブル・エッセイ(971)キリストの体と共に

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キリストの体と共に

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコによる福音書14:22-26)

 最後の晩餐の席で、キリストはパンを取って「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒の入った杯をとって、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言ったとマルコ福音書は伝えています。まもなく弟子を残して天に帰らなければならないことを知っていたキリストは、自分がいなくなっても弟子たちが神さまのことを忘れないように、ご自分の体を弟子たちのために残していってくださったのです。

 理解するのが難しい教えですが、少しずつ考えてみましょう。そもそも、なぜ、パンがキリストの体になったと言えるのでしょうか。キリストの体とは、わたしたちにとって神さまの愛の目に見えるしるしです。神さまの愛は目に見えませんが、目に見えるキリストの姿によって、わたしたちは神さまの愛をはっきりと感じられるのです。最後の晩餐の席でキリストが弟子たちのために愛情深くパンを割いたとき、弟子たちにとってそのパンはキリストの愛の目に見えるしるしとなりました。キリストの愛で満たされたパンは、まさに神の愛の目に見えるしるしであり、キリストの体そのものとなったのです。

 ミサの中でわたしたちが心を合わせて祈るときにも、それと同じことが起こります。感謝の祈りの中で聖霊がわたしたちを包み込み、司祭を通してキリストがパンを神に捧げるとき、司祭を通してキリストがパンを割くとき、このパンはわたしたちの目の前で神さまの愛の目に見えるしるし、キリストの体となるのです。形はパンのままかもしれませんが、このパンは神さまの愛で隅々まで満たされたキリストの体なのです。

 キリストの体をいただくとき、わたしたちの心は神の愛で満たされ、神の愛の中でわたしたちの心にある汚れた思いが清められます。神の愛で心を満たされるとき、わたしたちは、「神さまがこれほどまでに愛してくださっているのに、わたしはなんて愚かなことを考えていたのだろう」と思って、自然と罪から遠ざかってゆくのです。ミサの中でわたしたちがいただくキリストの体は、わたしたちの罪を清め、わたしたちを神の愛と固く結びつけるものだと言ってよいでしょう。ヘブライ人への手紙の中に「雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば」とありますが、キリストによって結ばれた新しい契約の中では、生贄の動物たちの血ではなく、キリストの愛がわたしたちを罪から清め、わたしたちの心を神と固く結びつけてくださるのです。

 ミサの中で共に祭壇を囲み、キリストの体をいただくとき、わたしたちの心を神の愛が満たし、わたしたちの間に神の国が実現します。それこそ、キリストが神との間に結んでくださった新しい契約だと言ってよいでしょう。パンとぶどう酒の形の中にキリストを見、キリストのうちに神の愛を見る信仰をわたしたちが持ち続ける限り、この契約が廃れることはありません。共にこの信仰を守り、この教会に、この街に、この世界に、神の国を実現してゆけるよう祈りましょう。

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