バイブル・エッセイ(1072)愛の輝き

愛の輝き

 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ17:1-9)

 ペトロたちの目の前で、「イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とマタイ福音書は伝えています。服が白くなったのは、きっとイエスの全身が輝いていたからでしょう。いったいなぜ、こんなことが起こったのでしょうか。弟子たちが見たこの光は、いったいなんだったのでしょう。

 人間が光り輝いて見える、そういうことは、日常生活の中でも時々あります。たとえば、幼稚園の子どもたちが運動会のリレー競争を全力で走っているとき。クラスのため、応援に来てくれた家族のために精いっぱい走っている子どもたちの姿は、光輝いて見えます。クリスマスお祝い会などで、みんなの前で精いっぱいに歌ったり、踊ったりしているときもそうです。その光は、子どもたちの命の輝きだといってよいでしょう。「みんなの喜ぶ顔が見たい」、その一心で自分のすべてを出し切って走り、歌い、踊るとき、子どもたちの命はまばゆく輝くのです。人間の命は、誰かのために差し出されたときに輝くといってもよいでしょう。

 そのように考えると、この場面でイエスの顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなった理由が分かる気がします。高い山に登るというのは、神と話すため、深い祈りの中で何か重要な決断をするためだったと考えられます。おそらくイエスは、このとき、深い祈りの中で、神のみ旨のままに自分の命を差し出すことを決意したのです。イエスが神の前に自分の命を差し出したその瞬間、イエスの顔は太陽のようにまばゆく輝き始めました。神への愛のため、人々への愛のために差し出されたとき、イエスの命はまばゆい光を放ったのです。

 光り輝くイエスの姿を見て感激したペトロは、この喜びを少しでも長く味わいたいと思ったのでしょうか、イエスたちのために仮小屋を作ろうと言い出します。そんなペトロに神は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語りかけました。神のみ旨のまま、愛のために自分を差し出したからこそイエスは光り輝いている。イエスの言葉に従って、あなたたちも自分を愛のために差し出すなら、あなたたち自身の命も輝くだろう。神は、ペトロにそう伝えたかったのかもしれません。イエスへの愛のため、人々への愛のために自分を差し出すなら、そのとき、わたしたち自身の命もまばゆい光を放つのです。

 この場面の前に、イエスは弟子たちに「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)と話しています。神のため、イエスのため、愛のために自分の命を差し出すとき、わたしたちの命は輝くということでしょう。せっかくの命を、できる限り輝かせて生きることができるように、お互いを、お互いへの愛の光で照らしながら生きられるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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