バイブル・エッセイ(892)神の小羊

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神の小羊

 ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:29-34)

 イエスがやって来るのを見たヨハネは、「見よ、神の小羊だ」と言いました。「神の小羊」とは、神に捧げられる小羊のことです。ヨハネはきっと、イエスこそ神のため、人々のために自分のすべてを神に差し出す者、自分の命と引き換えに人々を罪から救い出す者だと言いたかったのでしょう。小羊のようにまったく無力なものとして神に自分を差し出し、そのことによって人を救う。それがイエスの使命だったのです。

 「見よ」とヨハネが言うからには、イエスの外見に、あるいは生き方そのものに「神の小羊」であることを理解させるものがあったのだろうと思います。例えば、イエスはどんな服装をしていたでしょうか。ぴかぴかのファッションに身を固め、貴金属をじゃらじゃらさせるというような姿であれば、人びとはイエスを見て「神の小羊だ」とは思わなかったでしょう。おそらくイエスは、清潔ではあってもあちこち擦り切れ、継ぎが当たっていてる、そんな庶民の服を着ていたのだろうと思います。自分を見せびらかすための服ではなく、大工として、あるいは教師として人々に奉仕するための服、自分を人々に差し出すための服を着ていたのです。

 イエスは、どんな態度で人に接したでしょうか。自分の用事を何よりも優先に考え、人から話しかけられても「忙しいんだから、後にしてください」と断るような態度、相手が悩み事を話しているのに「いや、わたしだってこんなに困っているですよ」と自分の苦労自慢をするような態度ではなかったと思います。自分のことは後にしても、相手のために自分を差し出す。自分の苦しいことは脇に置いても、相手の苦しみに耳を傾け、その苦しみに寄り添う。自分を徹底的に相手のために差し出してゆく、そんな態度だったに違いないと思います。イエスは、人びとのために自分のすべてを差し出す「神の小羊」だったのです。

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とヨハネが証言していますから、イエスは聖霊の存在を感じさせる方でもあったのでしょう。イエスは、苦しみを抱え、救いを求めてやって来る人を、愛の温もりで包む方、この人に見つめられただけで心の傷が癒される、この人のそばにいるだけで、心に喜びや安らぎが湧き上がって来る。そんな風に感じさせる方だったのではないかと思います。「神の小羊」として自分のすべてを神に差し出して生きたイエスを、神は聖霊の恵みによって満たしました。「神の小羊」として生きたイエスから、聖霊の恵みがこの地上にあふれ出したのです。イエスからあふれ出す愛の温もりの中で、新しい自分に生まれ変わってゆく。心に勇気と希望の火がともされる。聖霊による洗礼とは、そんな体験を指しているのではないかと思います。

 イエスと出会い、聖霊によって洗礼を受けたわたしたちにも、「神の小羊」としての生き方が求められています。イエスに倣って、謙虚な心で自分を神のため、人びとのために差し出す生き方が求められているのです。ずる賢い狐や貪欲な狼にならず、いつも「神の小羊」としての生き方を選ぶことができるよう、謙虚な心で聖霊の恵みを願いましょう。