バイブル・エッセイ(469)心を開く力


心を開く力
 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7:31-37)
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」という人々の言葉に、イエスによってもたらされた救いが要約されているように思います。エスの愛に触れるとき、どれほど固く閉ざされた心も開かれるのです。開かれた心は神の呼びかけを聞き、喜びと感謝を語ることができるようになります。
 今回の癒しの場面で心を打たれるのは、イエスがこの耳が聞こえず、舌が回らない人をとても大切にしたということです。「手を置いてください」と頼まれただけなのに、イエスはわざわざ群衆の中からこの人だけを連れ出し、耳に指を入れ、舌に指を触れたのです。このような真心のこもった仕草を通して、この人は、イエスの愛を心の底から実感したに違いないと思います。エスの愛に深く触れたとき、これまで孤独や不安、恐れによって閉ざされていたこの人の心が開かれました。その瞬間に耳が開こえるようになり、すべてが聞こえるようになったのです。その口からは、神を賛美する声があふれ出したに違いありません。
 似たような話がマザー・テレサにもあります。あるとき、行き倒れの男性が「死を待つ人の家」に運び込まれました。最初、この男性はマザーを疑い、怒りと憎しみに駆られて「放っておいてくれ。何をするんだ」と叫んでいたそうです。ところが、マザーが傷を手当てし、体を拭い、温かな言葉がけをしているうちに表情がだんだん穏やかになってゆき、叫ぶのを止めました。息を引き取る間際には、マザーに「ありがとう」と言って安らかに天に召されたそうです。マザーの愛に触れることで、頑なに閉ざされていたこの人の心が開かれたということでしょう。心が開かれたとき、この男性はマザーの愛に気づき、すべての被造物を通して語られる神の愛のメッセージに気づきました。そして、感謝の言葉を口にすることができたのです。
 「誰もわたしを愛してくれない」と思い込み、不安や恐れ、憎しみ、嫉妬で心を閉ざすとき、わたしたちの耳は何も聞くことが出来なくなってしまいます。すべての被造物を通してわたしたちに愛を語っておられる神の声を、素直に聴くことができなくなってしまうのです。そんなときにわたしたちの心を開き、耳を開くことができるのは愛だけです。苦しみの中で固く閉ざされてしまった心を開くことができるのは、ただ愛の温もりだけなのです。
 まず、わたしたち自身がイエスに触れていただき、心を開いていただきましょう。開かれた心で神の愛のメッセージに素直に耳を傾け、心を愛で満たしていただきましょう。心が愛で満たされるとき、わたしたちの口は開かれ、語るべき言葉を語ることができるようになります。神に愛される喜びと感謝を、力強く人々に語ることができるようになるのです。愛に満たされた心で人々に触れるとき、わたしたちも誰かの心の扉を開くことができるに違いありません。このミサを通して、わたしたちにしっかりと触れて下さるイエスの手の温もりを感じることができますように。