バイブル・エッセイ(248)一人ひとりに違ったしるし


一人ひとりに違ったしるし
 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(マルコ7:31-35)
 人々は「手を置いてください」と願ったのに、このときイエスは思いがけない行動に出ました。連れてこられた人の耳に指を入れ、舌にさわったのです。なぜイエスはこんなことをしたのでしょう。
 頭に手を置くだけでも、この人の体の病が癒えたことは間違いがありません。イエスから溢れだす聖霊の力をもってすれば、それはたやすいことだったでしょう。なのにエスがここまでしたのは、きっとその人の魂を癒すためだったのではないかと思います。
 現代の教会でも、司祭がミサの中などで祝福をするときは、相手の頭の上に手をかざします。その人の上に神の恵みが降るようにとのしるしです。ですが、特に重い病気の人に回復を願って「病者の塗油」という秘跡を授けるときには、頭に手を置くだけでなく、額と両手に油で十字のしるしをします。この人の心と体が清められますように、この人の手が力を取り戻しますようにとの切なる願いを、しるしで表すのです。そこまでするのは、単に体を癒すためだけではなく、心の思いをしるしで表して病人の魂を癒すためだろうと考えられます。痛みや孤独の中で打ちひしがれた魂を癒すためには、愛をはっきりとした形で示す必要があるのです。
 今日の福音の場面で、おそらくイエスは連れてこられた人の心のうちを瞬時に感じ取り、この人の全身、全霊を癒すために一番いいしるしを選んだのでしょう。一見おおげさにも思われるかもしれませんが、この人を救うためにはこのしるしが必要だったのです。一人ひとりの魂を大切にするイエスの細やかで丁寧な愛情が、この聖書箇所に現れていると思います。イエスに倣って、わたしたちも一人ひとりを大切にし、相手に合った形で愛情を示したいですね。
※写真の解説…満開のサンシュユ。東京、吉野梅郷にて。