バイブル・エッセイ(987)本当に偉い人

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本当に偉い人

 イエスと弟子たちは、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)

「自分たちの中で一番偉いのは誰か」と言い争う弟子たちに向かって、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言いました。本当に偉い人というのは、自分自身の地位や名誉、利益を求めることなく、すべての人の幸せのために自分を喜んで差し出す人のこと。自分のことは脇において、奉仕する人になりなさい、ということでしょう。

 最近わたしが会った中で本当に偉いなあと思ったのは、あるレッカー車の運転手さんでした。実は先日、山の中を走っているとき、車のエンジンがオーバーヒートして、エンストを起こしてしまったのです。困り果てて保険会社に電話すると、レッカー車を呼んでくれました。わたしもレッカー車の助手席に乗せてもらい、教会の近くの修理工場まで運んでもらったのですが、乗せてもらっているあいだの1時間くらい、運転手さんは、信号で車が止まるたびごとに携帯であちこちと連絡を取り合っていました。「あそこで事故を起こしたオートバイ、どうなりましたか」とか、修理工場や事故を起こした人、その家族などと連絡を取り合っているようでした。ときおり相手の方に、「大きな事故にならなくてよかった」とか、「このあとすぐ行きますから安心してください」などと、あたたかい言葉をかけてあげています。事故を起こして大きなショックを受けている人たちにとって、本当に慰められる声掛けでしょう。その運転手さんの姿を見てわたしは、「ああ、このような人がいるからわたしたちは安心して暮らせるんだ。この人は本当に偉い人だな」と心の底から思いました。

 偉さというのは、社会的な地位や名誉、持っている財産などによって決まるものではなく、その人の中からにじみ出てくるものだとわたしは思います。本当の偉さとは、自分のことを脇においても、困っている人たちのために奉仕する心の中にあるものなのです。子どもたちは、そのことをよく知っています。子どもたちは、相手を見るとき、その人がどんな地位にある人かとか、何を持っているかとか、そんなことで相手を判断しません。ただ、その人がどんな人か、やさしい人なのかこわい人なのか、正直な人なのかずるい人なのか、そのようなことだけを見ています。目の前にいる相手が、どんな人かだけを見ているのです。子どもたちは「偉い」という考え方さえ持ちませんが、説明すれば、「偉い」のはやさしい人、正直な人だと言うでしょう。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」というイエスの言葉には、そんな子どもたちを受け入れられる人、そんな子どもたちと同じ心で生きる人こそ、神を受け入れる人、天国にふさわしい人だという意味が、含まれているような気がします。本当に偉いのは、目の前にいる相手をしっかり見て、謙虚な心で愛を生きる人なのです。わたしたちも、レッカー車の運転手さんのように、「この人がいてくれるから安心して生活できる」と思ってもらえるような、本当の意味で偉い人になれるよう心をあわせて祈りましょう。

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