バイブル・エッセイ(1021)身代わりの愛

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身代わりの愛

 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、言われた。「渇く」こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、言われた。「成し遂げられた。」(ヨハネ19:25-30)

 イエスは十字架上で、最後に「成し遂げられた」という言葉を残して息を引き取ったとヨハネ福音書は伝えています。イエスが「成し遂げたこと」、それはいったい何だったのでしょう。イエスが十字架上で死んだことによって、いったい何が変わったのでしょうか。

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」というイザヤ書の言葉の中に、十字架の意味を考えるための大きな手掛かりがあると思います。この言葉のもとにあるのは、わたしたちはみな、罪深い存在だということです。神の子として共に生きていくべき兄弟姉妹であるはずなのに、互いに争い、人を裏切ったり傷つけたりして生きているわたしたち。そのようなわたしたちは、本来、重い罰を受けても仕方がない存在だ。しかし、イエスは、そんなわたしたちを深く憐れみ、わたしたちが受けるべき罰を、わたしたちに代わって受けてくださった。それが、十字架の意味だということです。

 それは、イエスの愛の究極の表現だと言ってよいでしょう。人間同士のあいだでも、たとえば自分の子どもが重病にかかり、苦しんでいる。医師も手の施しようがないというとき、親は「この子の代わりに、わたしの命をとってください」と祈ることがあります。この子のためなら、この子を苦しみから解き放ち、再び立ち上がらせるためなら、自分の命さえ差し出してもかまわない。そのような親の思いは、「この子の代わりに」という身代わりの愛となって現れるのです。

 そのように祈っても、実際に親が子どもの身代わりになることはできないでしょう。しかし、イエスの場合には、それが実現しました。欲望に引きずられ、感情に押し流されて罪を犯してしまう人間の弱さをよく知っているイエスは、そんな人間たちの弱さを深く理解し、それでもそんな人間たちを救いたい。人間たちが味わうはずの苦しみを、自分が代わりに背負いたいと願って、神から聞き入れられたのです。イエスが十字架上で味わっている苦しみは、本来は、わたしたちが味わうはずだった苦しみなのです。

 イエスは、自分の愚かさのゆえに苦しむ人間たちを憐れみ、その苦しみをわたしたちの代わりに背負ってくださいました。苦しむわたしたちの代わりに、自分の命を差し出してくださったのです。それこそ、イエスが十字架上で「成し遂げた」ことでした。ここに、イエスの愛があります。この愛に触れるとき、わたしたちの心には、イエスへの感謝と同時に、「これほどまでにわたしたちのことを愛してくださるイエスを、これ以上苦しませてはならない。イエスの愛にふさわしい人間になろう」という思いが湧き上がるに違いありません。イエスの十字架を記念するこの日に、改めて十字架の愛に触れ、その決意を新たにしましょう。

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