バイブル・エッセイ(877)熱心に祈る

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熱心に祈る

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ16:1-8)

 しつこく裁判官にせがんで、願いを叶えてもらったやもめの話が読まれました。ちよっとどうかと思う話ですが、ここでイエスが言いたいのは、何があっても諦めないやもめの熱心さに見倣えということでしょう。わたしたちは、願いを持っても、すぐに諦めてしまうことが多いのです。

 例えば、世界の平和について。わたしたちは、毎週のように世界の平和を願いますが、果してこのやもめのような熱心さをもって祈っているでしょうか。心のどこかで、「もうこんなに祈ったんだし、世界は複雑だから、祈ってもすぐに平和になるということはないだろう」というような諦めを感じていないでしょうか。それでは、決して願いはかなえられないでしょう。このやもめのようになりふり構わず、なんとしてでも願いを聞き入れてもらうというくらいの覚悟が必要です。「神さま、いますぐにでも空爆を止めてください。子どもたちの命を守ってください」と心の底から真剣に祈るなら、神さまは必ず願いを聞き入れてくださるでしょう。少なくとも、そのように祈るとき、この世界には神への愛、神への信仰が生きており、神様は必ずそれを見つけてくださるのです。

 あるいは例えば、家族や友人との関係について。間違った道に進んで、頑なに忠告を受け入れようとしないような人、夫や子どもなど、に対して、わたしたちはつい「もうこれ以上やっても無駄だ」と諦めてしまいがちです。ですが、そんなことはありません。もしわたしたちが真剣に、心からの愛をもって祈り続けるなら、神さまは必ず相手の心を変えてくださいます。「折が良くても悪くても励みなさい。…忍耐強く、十分に教えるのです」とパウロが言うように、忍耐強く愛を注ぎ続ければ、必ず相手の心は変わります。わたしたちの心に神の愛が宿るとき、それと出会った人の心は必ず変わります。もし変わらないなら、それはまだわたしたちが十分に祈れていないから、わたしたちの心に神の愛が宿っていないからです。人間の心が変わるとき、どれほど困難に思えた状況にも、必ず変化が訪れます。祈りはわたしたちの心を変え、周りの人たちの心を変え、世界を変えてゆくのです。

 わたしたちが熱心になれない一つの理由は、どこかで他人事だと思っていることでしょう。もし自分自身が爆弾の危険にさらされており、自分の子どもたちが傷ついているなら、わたしたちはきっと一心不乱に祈り続けるでしょう。しつこいやもめのように、神さまを追いかけまわすに違いありません。簡単に諦めてしまうなら、それは、わたしたちの心にまだ愛が足りないから。どこかで他人事だと思っているからなのです。

 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とイエスは言います。大切なのは、わたしたちの心に信仰が燃えていること、愛の火が燃えていることです。苦しんでいる人たちへの愛、家族や友人への愛に突き動かされ、このやもめにも負けないほどの熱心さで願い続けることができるよう祈りましょう。