バイブル・エッセイ(1092)誰よりもイエスを愛する

誰よりもイエスを愛する

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:37-42)

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」とイエスはいいます。「家族よりも誰よりも、わたしを愛しなさいなんて、イエスはずいぶん我儘だな」と思う人もいるかもしれません。「イエスは、家族への愛を軽視しているのか」と思う人もいるでしょう。イエスはいったい、何をいいたいのでしょうか。
 この言葉を理解するための鍵となるのは、「すべての人の中にイエスがいる」ということです。神さまの愛の中から生まれてきたわたしたちは、誰でも心の最も奥深い所に、神さまの愛を宿しています。その愛こそが、わたしたちの中で生きるイエス・キリストなのです。どんな人の心にも必ずある、やさしさに満ちた清らかな心の聖所、そこにイエス・キリストがおられるのです。父や母、息子や娘を愛するのは、人間として当然のことであり、イエスがそれを否定するはずがありません。ただ、その人の中にイエスを見つけ出し、その人の中に宿っているイエスを愛しなさい。その人が自分の親だからとか、子どもだからという理由ではなく、まず「神の子」だからという理由で愛しなさいと、イエスはいっているのです。
 自分の親だから、子どもだからという理由だけで愛するなら、その人が自分の親として、子どもとしてふさわしくない行動をとったとき、その愛はきっと動揺するでしょう。そんなとき、わたしたちはつい、「わたしの子どもなのにどうして」とか、「こんな人はわたしの親ではない」などと考えてしまいがちなのです。何よりも大切なのは、自分の親が、子どもが、かけがえのない「神の子」だと気づくことだと思います。自分の父、母の中に、息子、娘の中に、イエスを見つけ出すのです。そうすれば、何があっても愛が揺らぐことはありません。どんなときでも、「いろいろな弱さや欠点はあるにせよ、この人は本当に大切な神さまの子ども。わたしに与えられたかけがえのない宝」と思って、愛することができるのです。その人の中にイエスを見出し、誰よりもイエスを愛するときにこそ、わたしたちは本当の意味で親を、子どもを愛することができる。そういってもいいでしょう。
 同じことは、自分自身への愛についても当てはまります。何よりも大切なのは、自分自身の中に生きておられるイエスを見つけ出し、イエスを愛すること。どんな弱さや欠点があったしとしても、わたしの中には神の愛が宿っている。わたしは「神の子」なのだと気づき、「神の子」としての自分を愛することなのです。それを忘れて自分のことだけを考え、私利私欲に溺れるとき、わたしたちは本当の自分を見失います。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とイエスがいうのは、そういう意味なのです。相手のうちに、そして自分のうちに、かぎりなく尊い「神の子」の命、イエス・キリストが宿っていることに気づき、その事実のゆえに、相手を、そして自分を愛することができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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