バイブル・エッセイ(1007)最大限の祝福

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最大限の祝福

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:1-11)

 イエスの最初の奇跡は、カナの婚宴の席で、水をぶどう酒に変えたことだと言われています。イエスの最初の奇跡は、結婚したばかりの若い夫婦を祝福するための奇跡だったのです。しかも、イエスが準備したぶどう酒はただのぶどう酒ではありませんでした。結婚式の世話役が「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」というほど上等なぶどう酒だったのです。イエスは、結婚した2人に、最大限の祝福を贈ったと言ってよいでしょう。

 イエスの愛は、人間の悲しみや苦しみに目を止め、わたしたちを憐れんでくださることだけではありません。イエスは、わたしたちの喜びも共に喜んでくださる方。わたしたちの喜びを、最大限の祝福で祝ってくださる方なのです。たとえば、誕生日を気づいてくれる人が誰もおらず、誰も祝ってくれなかったとしても、イエスは気づいて最大限に祝ってくださいます。イエスだけはわたしたちのそばに寄り添い、「あなたが生まれてきてくれて本当によかった。あなたがいてくれて本当にうれしい。あなたにも、あなたを生んでくれたお母さん、育ててくれた家族にも豊かに恵みがあるように」と祝ってくださいます。何かうれしいことがあるのに、その喜びを分かち合う人が誰もいない。イエスは、そんなわたしたちにやさしく寄り添ってくださる方。わたしたちの喜びを共に分かち合い、最大限の祝福を注いでくださる方なのです。

 パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言っていますが、誰かを愛するときには、共に喜ぶことも大切です。もし相手を自分のことのように大切に思っているなら、相手の喜びを自分のことのように喜ぶのは当然だからです。しかし、相手と一緒に喜ぶのは、それほど簡単なことではありません。なぜなら、相手にとてもよいことがあった場合、嫉妬心が生まれることがあるからです。「なんだ、あいつだけ幸せになりやがって。それに比べてわたしは…」などと考えて、やっていられない気持ちになる。人間には、そんな心の動きも起こりがちなのです。相手の苦しみを共に担うためだけでなく、相手と一緒に喜ぶためにも、自分のことをすっかり忘れるほどの愛、自分を捨てるほどの愛が必要だと言ってよいでしょう。「この人の幸せそうな顔が見られて本当にうれしい」、心がそんな喜びに満たされたときにだけ、わたしたちは相手を心の底から祝福できるのです。

 愛し合うとは、互いが互いの幸せを心の底から願うことだと言ってよいかもしれません。相手の幸せはわたしの幸せであり、わたしの幸せは相手の幸せでもあるような関係があるなら、その人たちの間には確かに愛があるのです。仮に相手の悲しみを共に悲しむことができたとしても、相手の喜びを共に喜ぶことが出来ないなら、それは単に相手より自分を上に置きたい、同情することで自分の優位を確認したいというだけかもしれません。カナの婚宴で若い夫婦を最大限に祝福したイエスにならい、わたしたちも誰かの喜びを自分の喜びとして喜び、その人に最大限の祝福を贈ることができるよう祈りましょう。

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