バイブル・エッセイ(488)水はぶどう酒に変えられる


水はぶどう酒に変えられる
 ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:1-11)
 イエスが最初に行った奇跡は、水をぶどう酒に変えることでした。この奇跡は、パンを増やす奇跡と2つの点で似ています。一つは、どちらもイエスが人々を憐れんで行ったということ。もう一つは、どちらもイエス自身ではなく、イエスの言葉を信じて行動した人たちの手を通して行われたということです。神の愛を信じて行動するとき、わたしたちの手を通して奇跡が起こります。わたしたちの運んでいる水はぶどう酒に変わり、わたしたちが分かち合うパンは無限に増えてゆくのです。
 イエスから水を世話係のところへ運ぶように言われた召使たちは、きっと戸惑ったに違いありません。ぶどう酒がなくて困っているところに、水を運んで言ったらどやしつけられるかもしれないからです。ですが、召使たちはともかく、イエスの言葉に従いました。すると、召使たちが運んでいるうちに水はぶどう酒に変わったのです。
 わたしたちにも同じことが起こります。わたし自身の切実な体験で言えば、説教や本、雑誌などの原稿の準備です。テーマを聞いて、初めは水っぽい言葉の羅列しか思いつかないのですが、イエスのあわれみを信じて準備しているうちにしだいに言葉が発酵してゆきます。人々の心に喜びと力を与えるぶどう酒に変わっていくのです。そこには、確かに聖霊が働いていると感じます。聖霊が、水っぽい言葉をぶどう酒に変えてくださるのです。神の言葉、神の愛を人々に伝えようとするとき、このようなことが起こります。わたしたちが思いつくことは水に過ぎませんが、何とかして人々に神の愛、神のすばらしさを伝えたいと願うとき、水はぶどう酒に変えられるのです。
 イエスからパンを渡され、人々に配るようにと言われた弟子たちも戸惑ったに違いありません。パンがすぐになくなるのは目に見えていたからです。「不平等だ」と暴動が起こる可能性さえありました。ですが、弟子たちは、イエスの言葉に従いました。すると、弟子たちがパンを配っているあいだにパンはどんどん増えていったのです。
 わたしたちにも同じことが起こります。わたしたちが人に配ることができるものなどたかが知れていますが、人々を何とかして救いたいというイエスの思いに従い、全力を尽くして働くなら、聖霊がわたしたちを通して働き始めるのです。宇部教会で言えば、昨年の80周年記念行事がそうでした。高齢化が進み、これだけの行事は無謀ではないかという心配は確かにありました。ですが、何とかして一人でも多くの方に神の愛を伝えたいと願い、一人ひとりがイエスの言葉に従って行動した結果、想像をはるかに超える力がわたしたちに与えられたのです。
 すべては聖霊のわざと言っていいでしょう。「すべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」(一コリ12)とパウロが言っている通り、イエスの言葉に従う者には、与えられた使命を果たすための力が与えられるのです。大切なのは、信じて疑わないこと。聖母マリアは、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とわたしたちに呼びかけています。イエスの言葉を信じ、聖母の励ましを信じて、わたしたちに与えられた使命を果たしてゆきましょう。