キリストの体になる
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:22-26)
キリストは最後の晩餐の席でパンを取って「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒を取って「これはわたしの血である」と言いました。なぜ、パンとぶどう酒なのでしょうか。他にもっと長持ちするものがあるのに、なぜ食べればすぐになくなってしまうパンと、飲めばすぐになくなってしまうぶどう酒をご自分の体として御定めになったのでしょうか。
そもそもなぜ、キリストがこの世に来られたのかということから考えてみたいと思います。キリストがこの世に来られたのは、目に見えない神様の愛の、目に見えるしるしとなるためでした。目に見えない神の愛を信じられず、理解することもできない人間のために、神の愛が何であるかを言葉によって、またご自分の生き方そのものによって人間に教えるためにキリストはやって来たのです。キリストは、神の愛を人間に伝えるための「ことば」としてこの世界にやって来られたのです。
では、キリストの死後、いったい何がその使命を受け継ぐことができるのでしょう。何がイエスの体となり、神の愛を人類に伝えることができるのでしょうか。石碑や銅板、紙に書かれた文字などではありえません。神の愛を人間に伝えることができるのは、生きている人間だけなのです。生きている人間だけが、神の愛の温もりや優しさを伝えることができるのです。ですが、どうしたらわたしたち人間が、キリストの体になることができるのでしょう。
そのための唯一の方法、それは、わたしたちがキリストの体を頂くことです。キリストの命が宿った御体を食べ、御血を飲むとき、キリストの命がわたしたちの体の隅々にまでゆきわたり、わたしたちの体をキリストの体に変えてゆきます。御体と御血にこめられたキリストの愛が、わたしたちの心を満たし、わたしたちの心をキリストの心に変えてゆきます。こうして、わたしたち自身がキリストの体となり、神の愛の目に見えるしるしとなるのです。そのために、キリストはパンとぶどう酒をご自分の体として御定めになったのだと思います。
御聖体をいただくとき、わたしたちの存在そのものがキリストの愛の目に見えるしるしとなります。口で語る言葉だけでなく、わたしたちの存在そのものが神の「ことば」になるのです。キリストの体であるわたしたちは、誰かと出会うとき、その人と出会えた喜びで心を満たされるでしょう。神の子であるその人の顔をじっと見つめ、その人が語る言葉を一言もらさず聞きとろうとするに違いありません。そのようにして、わたしたちは全身で相手に、「あなたは大切な人だ。わたしはあなたを愛している」というメッセージを伝えてゆくのです。病気に人に寄り添うとき、キリストの体であるわたしたちの心はその人への深い憐みで満たされるでしょう。傍らに立ってその人の手を握り締め、その人のために心から祈らずにいられなくなるに違いありません。そのようにして、わたしたちは全身で相手に、「あなたは一人ぼっちではない。わたしはいつもあなたのそばにいる」というメッセージを相手に伝えてゆくのです。キリストの体となってこの世界に神の愛を証するために、御聖体を通してキリストの命をしっかりと受け取りたいと思います。