バイブル・エッセイ(762)水の上を歩く


水の上を歩く
 エスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14:22-33)
 イエスから目をそらし、風や波を気にした瞬間、ペトロは湖に沈み始めました。ただイエスだけを見つめ、イエスを信じて進む限り、わたしたちは水の上でも歩くことができる。イエスから目をそらせば、その瞬間から沈み始めるということでしょう。
「沈む」という表現は、体だけでなく心にも用いられる表現だということに注目したいと思います。人間のイメージの中で、不安や恐れというようなものは、何か形のないもの、底の見えない湖のようなものとしてとらえられているのです。エスから目をそらすとき、わたしたちの心は不安や恐れの中に沈み始めます。それと同時に、わたしたちの体、わたしたちの生活も沈み始めるのです。
 これは、わたし自身の体験からも言えることです。わたしは、修道司祭として生きていますが、財産も持たず、結婚もせず、自分の将来を自分で決めることのできない修道生活というのはまさに水の上を歩くようなこと、人間としてあり得ないようなことだと思います。それを可能にしているのは、目に見えない神様の力。信仰の力以外にないのです。
 祈りから遠ざかり、イエスから目をそらすとき、こんな生活はまったく不可能なことのように思われます。たとえば、たくさんの仕事に追われているとき、「忙しくて祈っている暇などない」と考え始めたら危険信号です。その考えはやがて、「修道生活なんてしている暇はない。なぜわたしは、こんなことをして人生を無駄にしているだろう」という考えに発展してゆきます。これまで当たり前と思っていた清貧は、「こんなに働いても一銭にもならないなんてバカバカしい」という思いに、貞潔は「なぜわたしだけ独りぼっちなんだ」という思いに、従順は「自分がしたいことができないなんて、無意味な人生だ」という思いによって押しつぶされてゆくのです。そして、生活が乱れ始めます。イエスから目を離すとき、わたしたちの心は沈み始め、生活そのものも沈んでしまうのです。
 わかりやすい例として修道生活を上げましたが、これはキリスト教徒すべての生活に言えることでしょう。敵さえもゆるし、愛する。右の頬を打たれたら、左の頬も差し出す、などの教えは、常識的に考えて人間の自然な思いに反するものであり、まるで水の上を歩くようなことなのです。もし可能になるとすれば、それは信仰の力、神の見えざる力の助けによる以外にありません。信仰の力で不可能なことを可能にし、それによって神の栄光を輝かせることが、わたしたちの使命だといっていいでしょう
 人間の体は、普通に考えて水に沈むようにできています。誰も、水の上を歩ける人などいないのです。水の上を歩くためには、イエスを見つめ、イエスを信じる以外にありません。エスを信じるとき、わたしたちの目の前に信仰の大地が現れます。信じて、その上を歩いてゆきましょう。