バイブル・エッセイ(798)キリストと共に


キリストと共に
あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:3-11)
「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」と、パウロは言います。洗礼を受けて古い自分に死ぬとき、わたしたちはキリストと共に新しい命に生まれ変わるというのです。ですが、死ぬといっても、水をかけられることによって心臓が止まるということではないし、生まれ変わるといいっても、水をかけられたら「オギャー」と泣く赤ん坊に戻るということではありません。「キリスト共に死ぬ」、「キリストと共に生きる」とは、いったいどういうことなのでしょう。
 その答えは、キリストの十字架にあると思います。キリストは、ゲッセマネの園で「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈り、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)と言って十字架上で息を引き取りました。イエスにとって、死ぬとは、自分のすべてを神の御心、神の御手に委ねるということでした。「御心ならば、この杯をとりのけてください」という言葉や、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉からは、イエスにとってさえ、それは簡単なことではなかったことがわかります。ですが、イエスは神の愛を信じ、すべてを神に委ねて十字架上で息を引き取ったのです。わたしたちにとって、「キリストと共に死ぬ」とは、神にすべてを委ねることだと言っていいでしょう。さまざまな心配や不安、執着や欲望を手放し、すべてを神の手に委ねるとき、わたしたちは古い自分に死ぬのです。 
 では、「キリストと共に生きる」とはどういうことでしょうか。すべてを神の手に委ねて十字架上で死んだキリストは、3日の後、復活して永遠の命に生まれ変わりました。「キリストと共に生きる」とは、キリストと共に永遠の命に与ることだと考えていいでしょう。神にすべてを委ね、「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」というような思い煩いから解放されるとき、わたしたちの心は静かな喜びと力で満たされてゆきます。この静かな喜びと力こそが、永遠の命の始まりです。神にすべてを委ねて自分に死ぬとき、これまでわたしたちを動かしていた、欲望や恐れの力ではなく、神の愛がわたしたちを動かし始めるのです。キリストの愛を生きる力とし、キリスト共に生きてゆく、それこそが「キリストと共に生きる」ということだと考えたらよいでしょう。
 死ぬにしても、生きるにしても、何より大切なのは信仰です。神の愛を信じて疑わない信仰こそが、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことを可能にするのです。四旬節の初めに、「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」(ヤコブ1:6-8)というヤコブ書の言葉をご紹介しました。神の愛を信じるとき、わたしたちの人生に揺るがぬ土台が与えられます。神の愛を信じて疑わない人は、大地に足をしっかりつけて歩く旅人のようだと言っていいでしょう。神の愛を信じ、神の愛に生かされ、神の愛の大地をふみしめて人生の旅を続けてゆくことができるよう、心から祈りましょう。