マザー・テレサに学ぶキリスト教(11)イエスとは誰か③〜復活という出来事

第11回イエスとは誰か③〜復活という出来事
Ⅲ.復活という出来事
 今回は、キリストの復活についてお話ししたいと思います。「十字架と復活は表裏一体の一つの出来事」と言われますが、それは一体どういう意味なのでしょう。復活はわたしたちにとって具体的にどんな意味を持っているのでしょう。十字架がなければ復活はありえないし、復活がなければ十字架は意味を失うとさえ言われるほど密接な両者の関係にスポットを当てながら考えてみたいと思います。
1.出来事としての復活
 まず「復活」と呼ばれている出来事が、どのようなものだったのかについて考えてみましょう。
(1)弟子たちの人生の転換点
 はっきりしているのは、「復活」と呼ばれる出来事が弟子たちの人生にとって転換点となる決定的な出来事だったということです。ローマ兵に捕えられたイエスを見捨て、十字架上で死んでゆくイエスを見殺しにした弟子たちが、この出来事を転換点として今度は逆に、自分の命さえもかけてイエスの伝えた福音を宣教し始めたからです。
 逆に言えば、このような弟子たちの態度の転換点となった出来事こそが「復活」だったと言えるでしょう。弟子たちの態度が、何のきっかけもなしにこれだけ変わるということは考えられませんから、やはり弟子たちに「復活」と呼ばれるなんらかの出来事があったことは間違いないと思います。
(2)弟子たちへの出現
 「復活」の出来事が最もはっきり描かれているのは、「復活」したイエスが弟子たちと出会う場面でしょう。ヨハネ20章に描かれたマグダラのマリアや12使徒への出現、ルカ24章に描かれたエマオに向かう弟子たちへの出現などがその代表的なものです。これらの出現物語を読むと、いくつかのおかしなことに気づきます。イエスと話し、食事を共にしたという記述から、弟子たちがイエスを生きた存在として実感していたことがわかります。
 しかし、弟子たちは最初イエスと出会ったことに気付かなかったり、イエスの姿を急に見失ったりしているのです。それに、イエスの側から現れない限り、弟子たちは決してイエスと会うことができません。これらの事実を要約すると、イエスと弟子たちとの出会いは、①イエスの意思による、②イエス本人だと分かるが、③十字架につけられる前のイエスとはどこかが違う、④生きたイエスとの出会いだったということができるでしょう。
(3)出来事の2つの側面
 すべての出来事には2つの側面があります。わたしたちの外で起こった出来事それ自体(出来事の客観面)と、それらの出来事と出会うことでわたしたちの心の中に起こった出来事(出来事の主観面)です。たとえば「通り魔殺人」という出来事があったとき、わたしたちの心の中に何か重苦しく、やりきれない思いが生まれてくるでしょう。それが、出来事のもう1つの側面だということです。
 「復活」を出来事として考えたとき、「復活」にも2つの側面があると言えます。イエス・キリストに起こったなんらかの客観的な出来事と、それと出会った弟子たちの心の中に起こった主観的な出来事です。わたしたちは、弟子たちの証言を通してしか「復活」の出来事を知ることができませんから、客観的な出来事としての「復活」は推測によってしか知ることができません。
 しかも、「復活」は神であるキリストに起こった出来事ですから、人間が完全に知りうるようなことでもありません。わたしたちにできるのは、弟子たちの心で起こった主観的な出来事から、「復活」と呼ばれる出来事の客観的な側面をおおよそ類推することだけです。ここまでにお話ししたことからは、「復活」という出来事が、弟子たちの人生を根底から変えてしまうほどのなにかとてつもない出来事だったということができるでしょう。

2.解釈用語としての復活と高挙
  では、弟子たちはなぜそのとてつもない出来事、人間の理解を越えた神秘的な出来事を「復活」と呼んだのでしょうか。それを知るためには、当時流行していた終末思想と呼ばれる考え方を知っておく必要があります。
(1)終末思想における死者の復活
 終末思想というのは、紀元前2世紀から紀元後2世紀くらいにパレスチナ地方で流行していた思想です。その思想は、神がこの世界に対して決定的な介入をする終末が近づいていること、終末には「人の子」と呼ばれる裁き手が現れて人々の罪を裁くこと、終末における裁きの前提として死者が蘇ること(復活)などを教えていました。ダニエル書7章や12章に、この思想の影響とみられる言葉が見られます。
 死んだはずのイエスと出会った弟子たちは、これはきっと終末の前提としての死者の蘇りだろうと考え、この出来事を復活と呼ぶことにしました。(弟子たちがイエスの「復活」を終末思想における復活と解釈したことで、それまでなかった「世の終りが近い」という考え方がキリスト教に入り込んだという見方もあります。)
 しかし、実際に起こった出来事は単なる死者の蘇りとしての復活ではなく、弟子たちの生涯を決定的に変えてしまうほどの意味を持ったもっと偉大な出来事としての「復活」だったと考えられます。単に死者が蘇っただけだとすれば、イエスは再び死ぬ運命だということになりますが、イエスの「復活」はそのような出来事ではありませんでした。イエスの「復活」は、単なる死者の復活ではなかったのです。そのことが、「復活」という出来事のもう一つの呼び名からわかります。
(2)「復活」のもう一つの呼び名
 聖書の中で、「復活」の出来事を指している言葉がもう一つあります。それは、「高く挙げる」(「高挙」・こうきょ)という言葉です。フィリピ書2章はそのことを「神はキリストを高く挙げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」と表現し、一テモテ3章は神がイエスを「栄光のうちに上げられた」と表現しています。これらの表現が語っているのは、イエスが神と同じ高さにはまで挙げられ、神と同じものになったということです。「復活」したイエスと出会い、イエスがもはや人間をはるかに越えた方であるといことを実感した弟子たちは、その体験を「高挙」と呼んだのだと考えられます。
 この「高挙」という表現から、「復活」が単なる死者の蘇りではなかったことがはっきり分かります。「復活」したイエスは、もはや元と同じ人間ではなく、神と同じ領域に属する存在として弟子たちに現れたからです。弟子たちは、「復活」したイエスがもはや人間の理解を越えた領域に入られたということを、イエスとの出会いから感じ取ったのです。
(3)理解できなくて当然
 よく「復活」という言葉が理解できないという人がいますが、それは当然のことです。「復活」と呼ばれている出来事は、それを目撃した弟子たちの理解をはるかにこえた神秘であり、それについての弟子たちの説明も不完全なものでしかないからです。弟子たちでさえ理解できなかったことを、わたしたちが理解できるはずがありません。「復活」は理解するものというよりも、実際に「生きているイエス」との出会いを通して体験するものだと言えるでしょう。

3.十字架との関係
(1)十字架の必然的帰結
 マザー・テレサの祈りに次のような一節があります。
「あなたは人間たちからの拒絶も、十字架と受難の苦しみも謙虚に、忍耐強く受け入れられました。わたしたちも、日々の生活の中でおこる苦しみや争いを、あなたにもっと似たものになるための機会として受け入れられるようお助け下さい。
 わたしたち自身とわたしたちの自己中心的な思いの頻繁な死によってのみよりよく生きることができるのだと悟らせてください。わたしたちは、あなたと共に死ぬからこそ、あなたと共に復活できるのですから。」

 なぜ苦しみを受け入れることによって、わたしたちはよりよく生きることができると言えるのでしょう。自分の思いに死ぬことによって、新たな命によみがえると言えるのでしょう。それは、イエスが十字架の死を通して復活したからです。
 イエスが、自分を完全に神に捧げる生贄となることで、完全に自分を乗り越えることで人類と神との間に愛の交わりを回復した当然の帰結として、イエスの復活が起こりました。神は、自分の全てを神に捧げる者を死の闇の中に放っておくような方ではないからです。神のために自分を捨て、空になった人の心に、神はあふれるほどの聖霊の恵みを注がずにはいられません。自分の「肉の命」を差し出す者に、神はより完全な「永遠の命」をもって報いて下さる方なのです。
 それが、十字架と復活の意味です。その意味で、十字架があるところ必ず復活がありますし、十字架がなければ復活はありえないのです。わたしたちは、十字架に続いて起こった復活の出来事によって、そのことを確信できます。
(2)罪の赦しの体験
 「復活」はまた、弟子たちにとって赦しの体験でもありました。弟子たちはイエスが生きて目の前に現れたとき、きっと恐れを感じたはずです。なぜなら、イエスが殺されようとしているときにイエスを見捨てて逃げてしまったからです。自分たちが裏切り、見殺しにした人が目の前に現れたら、きっと誰でもぎょっとするでしょう。
 しかし、「復活」のイエスが弟子たちに向かって語りかけた第一声は、罵りや怒りの言葉ではなく「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)という平和の挨拶でした。弟子たちが喜んだのは当然でしょう。
 本来は簡単に赦されるはずのない自分たちの罪を寛大に赦されたことで、弟子たちは自分たちも人々に神の赦しの偉大さを伝える必要があると考えるようになっていきました。その決意が、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)というイエスの言葉にも反映されていると考えられます。弟子たちにとって「復活」のイエスとの出会いは、大いなる赦しの体験に他ならなかったのです。
 イエスは、弟子たちの罪を放っておくことができませんでした。弟子たちにとって、十字架における裏切りは、復活における無条件の赦しの体験によって完全な神の愛の体験になりました。この意味でも、十字架と復活は不可分なのです。

4.復活の意味
 復活の最も大切な意味は、「イエスは生きておられる」ということです。目には見えなくても、イエスは生きていて、いつもわたしたちの隣にいて下さるのです。
 十字架上で神の愛に満たされ、「永遠の命」を与えられたイエスが今も生きているというのは、ある意味で当然のことです。マザー・テレサは次のように語っています。
 「イエスを愛する喜びをいつも心に持ち続けましょう。そしてその喜びを、わたしたちが出会うすべての人々と分かち合いましょう。
 そのようにして伝えられる喜びは真実です。なぜなら、わたしたちはキリスト共にいながら幸せでない理由がないからです。
 わたしたちの心の中にいるキリスト、わたしたちが出会う貧しい人々の中にいるキリスト、わたしたちのほほえみ、そしてわたしたちに向けられたほほえみの中にいるキリスト。」

 わたしたちと共にいて下さるキリスト、それこそ「復活のキリスト」に他なりません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という約束の実現として、イエスは今もわたしたちと共に生きておられます。
 沈黙の祈りの中で「心の耳」を開いてイエスの呼びかけを聞こうとするとき、「心の目」を開いてすべて被造物の中にイエスを見つけようとするとき、わたしたちはそのことを深く悟ることができるでしょう。
 マザー・テレサは、深い祈りの中で「生きているイエス」の存在を全身で感じ、イエスと共にいる喜びに満たされていたからこそあれだけの活動ができたのです。マザーの生涯自体が、イエスの復活の証だと言えるでしょう。
 
5.まとめ
 十字架と復活が不可分であること、十字架と復活があったからこそ、わたしたちは今も弟子たちと同じようにイエスの存在を感じながら喜んで生きることができるのだということが、分かっていただけたでしょうか。
 ブログですでに何回も書きましたが、この夏、わたしはカルカッタを訪れたときに「復活」についての理解を深められる体験をしました。マザーの墓の前にひざまずいて祈ったとき、目の前にマザーが生きていることをはっきりと感じたのです。これはもう言葉で説明できるような出来事ではなく、死んだはずの人が目の前にいるという体験そのものでした。イエスの復活も、おそらく似たような出来事だったのでしょう。
 マザーに倣ってわたしたちも、毎日の祈りの中で、そして日常生活の中で「復活したキリスト」、「生きているイエス」の存在に気づき、日々イエスとの出会いの喜びを新たにしていきたいものです。