バイブル・エッセイ(226)王として生きる


王として生きる
 キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。(1コリント15:20-28)
 イエス・キリストは、復活して天国の王位に挙げられたというだけではなく、その生涯において王でありつづけました。ナザレでの隠れた生活のあいだも、寝る所さえない福音宣教の旅のあいだも、十字架上で無残な姿をさらしていた時でさえ王であり続けたのです。果たしてどのような意味で王だったのでしょう。
 富、権力、名誉など地上の支配者たちに屈することなく、御自身の心から初めてこの地上に神の秩序を打ち立てたという意味で、イエスは全生涯においてまぎれもなく王だったとわたしは思います。荒れ野でのサタンからの誘惑の場面に端的に記されているように、イエスは自分の心の中に入り込もうとする地上の支配者、富、権力、名誉などの誘惑をきっぱりと拒絶しました。地上の支配者に屈することなく唯一の神への愛を貫くことで、イエスはまず自分自身の心に王権を打ち立てられたのです。
 次にイエスは、人々との出会いの中でこの地上に神の支配を打ち立てていきました。貧困や病気、差別の中で神から見捨てられたと思い込み、自暴自棄になりかけていた人たちの元を訪れては、その人たちと神とのあいだの絆を固く結びなおしていったのです。イエスと出会った人たちは、誰も自分が神から愛されていることを実感し、神への愛を新たにして立ち上がっていきました。また、イエスは人々を虐げ、神と絆を断ち切ろうとする地上の支配者たちにも敢然と異議を唱えました。社会の中にある悪の構造に対して、決して屈することがなかったのです。こうしてイエスは、自分自身から初めてこの地上に神の支配、神の秩序を実現する王であり続けました。十字架上で最後の支配者、死の恐怖に打ち勝ったとき、イエスの王権は完全なものになったと言えるでしょう。
 洗礼によってイエスと結ばれたわたしたちにも、神から同じ使命が与えられています。富、権力、名誉などの誘惑に屈することなく、まず自分自身の心に神の秩序を実現する王となれるよう、そしてこの世界に神の秩序を打ち立てる王となれるよう、聖霊の助けを願いましょう。
※写真の解説…カトリック六甲教会の庭にて。桜の木の紅葉。