バイブル・エッセイ(1045)弱いからこそ

弱いからこそ

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:1-10)

 今日の聖書箇所の最後で、イエスは「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」といっています。ルカ15章では、迷い出た1匹の小羊のたとえ、失われた銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえと3つのたとえ話が続けて語られるのですが、これらのたとえ話を通してイエスがいいたかったのは、まさにこのことでした。わたしたちは誰もが神の子であり、たとえ1人でも迷い出て苦しんでいれば、神は放っておくことができません。もしその人が自分の間違いに気づき、神のもとに戻るなら、天には大きな喜びがあるのです。

 これは、わたしたちにとって大きな喜びの知らせ、まさに福音だと思います。なぜなら、わたしたちは誰もが、多かれ少なかれ道を踏み外し、神さまに心配をかけている罪びとだからです。どんなに反省しても、告解して罪をゆるしてもらっても、また同じ罪を犯してしまう。そんな弱さを持ったわたしたちを、神さまは決して見捨てることがありません。道に迷ったわたしたちを、神さまは忍耐強く待ち続け、探し続けてくださる方なのです。どんなに時間がかかったとしても、わたしたちが悔い改め、正しい道に戻るなら、天には大きな喜びがあります。自分が罪びとであることに気づき、そのことに嫌気がさしたなら、そのときこそ神さまを喜ばせるためのチャンスだといってよいでしょう。

 わたしたちが悔い改めるなら、それは他の人のためにもなります。「わたしが憐れみを受けたのは、わたしがこの方(キリスト)を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」とパウロが自分の経験を語っていますが、もし罪びとであるわたしたちが悔い改め、罪をゆるされるなら、それは罪の中に迷っている他の人たちにとって「手本となる」のです。悔い改め、ゆるされたわたしたちの姿が、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ということの何よりの証になるといってもよいでしょう。悔い改め、罪をゆるしていただくことによって、わたしたちは、「神さまは、これほど罪深い人間でもゆるしてくださるほど慈しみ深い方だ」ということを、身をもって示すことができるのです。

 長年、教会に通っている人の中には、「いつも同じ罪ばかり犯している弱いわたしを、本当に神さまはゆるしてくださるのだろうか」と思ってあきらめかけている人もいるかもしれません。しかし、神さまは、そんな人こそ待っておられるのです。弱いわたしたちだからこそ神さまを喜ばせることができるし、弱いわたしたちだからこそ神の慈しみ深さを、身をもって証しすることができるのです。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」というイエスの言葉をしっかりと胸に刻み、共に悔い改めの道を歩み続けることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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