バイブル・エッセイ(1051)神の子として生きる

神の子として生きる

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14)

 他人と比べて自分の行いが正しいことを誇るファリサイ派の人と、自分の罪を悔いて神の前にひれ伏す罪人、そのうち「義とされて家に帰ったのは罪人であって、ファリサイ派の人ではない」とイエスは言います。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というのです。

 そもそも「義とされる」とはどういうことでしょう。義は「正しい」ということですが、神の前で正しいということは、つまり「神の子としてふさわしい」ということに他なりません。つまり、「義とされる」とは、「それでよい。それでこそわたしの子だ」と神さまから言っていただくことなのです。このたとえ話で、「それでこそわたしの子だ」と言ってもらったのは徴税人でした。自分の間違いに気づいて悔い改め、神にゆるしを願う徴税人の態度は、「神の子」としてふさわしいものだったからです。

 それに対して、ファリサイ派の人の態度は、神の子としてふさわしいものではありませんでした。なぜなら、彼は、自分と他の人たちを比較し、他の人たちを見下していたからです。神さまが望んでおられるのは、自分の子どもたちが互いに愛し合うことであって、競い合うことではありません。他の人と競い合うのは、神の子としてふさわしい態度ではないのです。

 ですが、わたしたちは、このファリサイ派の人と同じような態度をとってしまいがちです。他の人と自分を比べ、自分が他の人よりも優れていると思ったときには神さまに感謝し、劣っていると思ったときには神さまに苦情をいってしまうのです。競争に勝ったと思えば「あの人に勝たせてくれてありがとうございます」と感謝し、負けたと思えば「なぜあんな人に負けなければならいのですか」と苦情をいう。それは、神の子としてふさわしい態度ではありません。神さまが望んでおられるのは、子どもたちが互いのよさを認め合い、尊敬し合うことだからです。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」(二テモ4:7)とパウロは言います。ここでパウロは、自分が他の人たちとの競争に勝ったことではなく、神さまが自分のために「決められた道を走りとおし」たことを誇っています。パウロにとって問題だったのは、他の人たちよりも立派に、速く走ることではなく、たとえ転びながらであったとしても、神さまが自分のために準備して下さった道を最後まで走り抜くことだったのです。これはまさに「義の栄冠」を受けるのにふさわしい態度と言えるでしょう。神さまから決められた道を走り抜くこと、神さまが自分に与えてくださった使命を最後まで果たし抜くこと、それこそ、神の子に最もふさわしい態度なのです。

 神の子としてふさわしく生きるために何より大切なのは、自分と神さまとの関係です。神さまから与えられた使命を、忠実に果たそうとするからこそ、わたしたちは神の子としてふさわしく生きられるのです。他人と自分を比較する必要など、どこにもありません。ただ、神さまから自分に与えられた使命を最後まで果し抜くことだけを願って祈りましょう。

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