バイブル・エッセイ(765)神の声に耳を傾ける


神の声に耳を傾ける
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』 と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。(マタイ5)
「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入ることができない」とイエスは言います。義とは何でしょう。それは、「神の子」らしさだと言っていいでしょう。「神の子」として、恥じることなく神の前に立つことができる状態を「義」と呼ぶのです。罪を犯したアダムとエバが、神を畏れて木陰に隠れたように、よくないことをしていれば、恥ずかしくて神の前に立てません。一部の律法学者やファリサイ人のように、外見は立派でも、陰で悪いことをしていれば、すべてを見ておられる神さまの前に立つことはできないでしょう。「神の子」として神の前に立ちたいなら、普段から「神の子」としてふさわしくふるまう必要があるのです。
 悪魔は、わたしたちが罪を犯すように誘惑します。ですが、わたしたちの罪を悪魔のせいにすることはできません。なぜなら、罪を犯すのはわたしたち自身だからです。「馬を水辺にまで引いてゆくことはできても、水を飲ませることはできない」と言いますが、悪魔にできるのは、わたしたちをおいしそうな木の実の前に連れてゆくことだけです。「望んで選んだ道が、彼に与えられる」とシラ書が言う通り、手を伸ばしてその実をとるのはわたしたち自身なのです。厳しい事実ですが、逆に言えば、わたしたちが誘惑に負けさえしなければ、悪魔には何もできないということでもあります。
 ではどうしたら、悪魔の誘惑に負けず、いつも神の子としてふさわしく生きることができのるのでしょう。そのためには、悪魔の声ではなく、神の声にしっかり耳を傾けて生きることしかないでしょう。
 たとえば、わたしたちが一時の感情に流され、よく考えずに何か始めると、心の中に「本当にこれでいいのかな」「何かが違う気がする」といったモヤモヤした気持ちが生まれます。そのモヤモヤの中に、神の呼びかけが隠れていることが多いようです。何か引っかかるものを感じたら、ゆっくり時間を取り、心のモヤモヤとしっかり向かい合ってみたらよいでしょう。そのうちにモヤモヤの中から、「どんなに得だといっても、人に迷惑をかけるようなことはすべきでない」とか「ばれないからといって、誰かを傷つけるようなことをすべきではない」というような、自分の本当の気持ちが現れてきます。その声こそが、わたしたちの本心であり、神様からの呼びかけなのです。わたしたちの心の一番奥深くに住んでいる神様が、わたしたちの心を通してそう呼びかけているのです。
 心の奥底から呼びかける神の声、わたしたちの心の奥深くに眠る愛の声に耳を傾けることこそ祈りの始めです。その声が、何かをやめるように呼び掛けているなら、今度はわたしたちの方から、「神さま、それをやめるための力をお与えください」と祈りましょう。何かをするように呼び掛けているなら、「神さま、それをするための力をお与えください」と祈りましょう。それこそ、神の御旨にかなった祈りです。その祈りは、必ず聞き届けられ、実現するでしょう。
 先日、列福された高山右近のように、神の声だけに従って生きる堅い決意を持った人に、悪魔は何もすることができません。日々、神の声にしっかりと耳を傾け、悪魔の誘惑と戦ってゆきましょう。