バイブル・エッセイ(1071)愛を選び取る

愛を選び取る

 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:1-11)

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」、イエスがそういうと、悪魔は去り、天使たちが来て仕えたと聖書は記しています。アダムは誘惑に負けたが、イエスは誘惑に打ち克った。そのことがはっきりと分かる箇所です。

 アダムが誘惑に負けて罪を犯したことで死が人間を支配するようになったが、イエスが誘惑に打ち克って義とされたことで人間は命を得たとパウロは記しています。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」というのです。誘惑に負けるなら命を失い、誘惑に克つなら命を得る。パウロはそう考えていたのです。

 ここでいう命とはいったい何でしょうか。罪を犯したからといってすぐに死んでしまうわけではありませんから、心臓が動いている、止まっているという意味での生死について話しているわけではないようです。では、ここでいう命とはいったい何なのでしょう。それは、喜びと力に満ち溢れ、「神の子」として幸せに生きるということだとわたしは思います。それが本来の生きるということ、神がわたしたちに与えて下さった命のプレゼントなのです。

 しかし、この命を得るためには自分の命を差し出さなければならないとイエスは言います。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)というのです。「わたしのために命を失う」とは、愛に突き動かされて自分を差し出すこと、イエスのため、また貧しい人々、苦しんでいる人々のために自分を差し出すことだと考えたらよいでしょう。わたしたちは、自分を差し出して愛を生きるときにだけ、神の愛に満たされ、喜びと力にあふれた命を生きることができるのです。

 もちろん、自分を差し出すには勇気がいります。悪魔は、そこにつけこんでわたしたちを誘惑しようとするのです。欲望を満たすことこそが幸せなのだと錯覚させ、わたしたちを神の愛から引き離そうとするのです。この誘惑をきっぱりと退けるために必要なのは、どんなに欲望を満たしても人間は幸せになれない。人間が幸せに生きるためには、神のために自分を差し出す以外にないということを深く肝に銘じ、決して忘れないことだと思います。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26)とイエスがいう通り、たとえすべてを手に入れたとしても、自分の命を見失い、迷いと不安、孤独、恐れの中で不幸な日々を生きるなら、何の意味もありません。互いに心を通わせあい、支えあい、助けあって生きる日々の中にこそ、互いに愛しあって生きる日々の中にこそ、わたしたちの幸せがあるのです。悪魔の誘惑をきっぱりと退け、「神の子」として生きる命の道を選ぶことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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