バイブル・エッセイ(1070)救いの喜び

救いの喜び

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ16:1-6、16-18)

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とイエスはいいます。わたしたちが神から頂く報い、それは魂の救いであり、永遠の命ですから、イエスがいっているのは、つまり、人から見てもらうために善いことをしても、わたしたちは救われない。人から見てもらうためではなく、神のみ旨のままに、当然のこととして善行をしなさいということなのです。

 そもそも、救いとはなんでしょうか。それは、わたしたちが、神さまの愛に触れて「神の子」としての本来の姿を取り戻すこと。心の奥深くに宿った神の愛に導かれ、神のみ旨のままに生きることだとわたしは思っています。苦しんでいる誰かを見て、放っておくことが出来ないと思い、その人のために自分を差し出すなら、そのときわたしたちに救いが訪れる。神のみ旨のまま、愛に突き動かされて生きるときにこそ、わたしたちは「神の子」としての本来の姿を取り戻し、心からの喜びに満たされるということです。

 大切なのは、わたしたちの心に愛があるかどうかということです。どんなによいことをしても、人から見てもらうためならば、それは結局、相手のためではなくて自分のためであって、そこに愛はありません。愛がないなら、救いもないのです。人から褒められればうれしいかもしれませんが、それは、人から認められたいという自分の欲望が満たされたことによる喜びにすぎません。一時は心を満たすけれど、すぐに消えてしまい、あとに大きな虚しさが残るような喜び、「褒めてもらうために、また別のよいことをしなければ」というあせりを生み出すような喜びにすぎないのです。わたしたちが願っている魂の救いとは、ほど遠いといってよいでしょう。

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」とさえ、イエスはいっています。これは、他人の目だけでなく、自分自身の目にも気をつけなさいということでしょう。人目につかないところでよいことをしても、「わたしは人目につかないところでこんなによいことをしている。なんてすごい人間なんだ」と自分の目が思うなら、それは結局、自己満足にすぎないからです。それでは、救いに与ることができません。

 愛に導かれ、愛のままに生きるときわたしたちの心に生まれる喜び。「こんな自分でも誰かのお役に立てた」、「この人に喜んでもらえて本当によかった」という純粋な愛の喜び、それこそが「神の子」の喜びであり、わたしたちの救いだということを、忘れないようにしたいと思います。この四旬節に、わたしたちが神の愛を生き、「神の子」としての本来の姿を取り戻すことができるように、いつも愛の喜びに満たされて生きることができるように、心をあわせて祈りましょう。

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