バイブル・エッセイ(389)「輝いて生きる」


輝いて生きる
エスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。(マタイ17:1-5)
 エルサレムに行って十字架にかけられるべきか。神は、自分の命までも望んでおられるのか。そのことを識別するため、イエスは弟子たちを連れて山に登りました。祈りを終えたとき、イエスの顔は輝きはじめました。なぜでしょう。それは、どんな輝きだったのでしょう。
 もし人間の顔が電球だとすれば、それを輝かせる電気は神様の愛だと思います。神様の愛が心に降り注ぐとき、わたしたちの顔は喜びと力に満ちて光り輝くのです。エスが深い祈りの中で心を神に向け、自分のすべてを差し出すほど神を愛したとき、イエスの全身を神の愛が満たしました。イエスの顔が光り輝きはじめたのは、そのためだったのではないでしょうか。人間は、自分を捨てて神を愛するとき、神の愛とつながって光り輝くことができるのです。
 何か大きな仕事を前にすると、わたしたちはつい「どうやったらうまくいくだろう」「あの本に書いてあった通りこうしてみよう」、そんなことを考えてしまいがちです。なんとかして、自分の力で自分をよく見せよう、輝かせようと思案するのです。ですが、それは無理だと思います。電球は、どんなにがんばって自分を磨いても、自分の力だけで光ることができません。人間も、それと同じなのです。どんなに自分を磨いても、神の愛という電気が流れない限り、わたしたちは決して輝くことができないのです。
 何か大きな仕事を前にしたとき、神様に心を向け、「わたしにはまったく力がありません。どうかあなたが与えて下さった使命を果たすために、人々を救うために力をお与えください」と祈っていると、やがて心の底から力が湧き上がってきます。これから出かけていく学校の生徒、待っているお年寄り、深い悩みの中にある若者たちの顔を思い浮かべて祈っているうちに、わたしたちの心は喜びと力で満たされるのです。そんな状態で仕事にのぞむときが、一番うまくゆくように思います。そんなとき私たちは、自信に満ちて、本来の自分の力を100%発揮することができるのです。神様の愛という電気が心に通ったときにこそ、わたしたちは自分を輝かせることができるのです。
 自分のことばかり考え、自分だけを愛しているうちは決して輝くことができない。自分のことを忘れて神を愛し、人々を愛するとき、わたしたちは輝きはじめる。この事実は、わたしたちに一つのことを教えてくれます。わたしたちに光る力があるなら、それは自分のためではなく、神のため、人々のために与えられたものだということです。その力は、自分のためには使うことができない力、神と人々のためにだけ使うことができる力なのです。神様の愛とつながって輝くことができるように、暗闇の中にある人々の心を照らす光になることができるように、心から祈りたいと思います。