バイブル・エッセイ(1082)心を開く

心を開く

 この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。…一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカ24:13-17,28-35)

 暗い顔をして、自分たちの身に起こった不幸な出来事について話し合っていたとき、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。しかし、不思議な旅人を引きとめ、一緒に食事の席についたとき、「二人の目が開け、イエスだと分かった」とルカ福音書は記しています。なぜ、このようなことが起こったのでしょう。一緒に食事の席についたとき、なぜ二人の目は開かれたのでしょうか。

 大きな試練にあったときや、深い悲しみ、苦しみの中にあるとき、周りのことが見えなくなる。そのようなことは、よくあると思います。「これからどうやって生きてゆこうか」「なぜ自分にこんなことが起こるのか」と、自分のことしか考えられなくなり、周りのことが見えなくなってしまうのです。弟子たちに起こったのも、そのようなことだったのかもしれません。

 不思議な旅人に話しかけられたとき、弟子たちはきっと、「うるさいなぁ」と思ったことでしょう。大切なことを話しているときに、何も知らない第三者が割り込んで来たら、そう思うのが普通です。しかし、その旅人の話を聞いているうちに、二人の心は変わってゆきます。不安や恐れに押しつぶされそうになっていた心が和らぎ、心に再び火がともされたような、心が燃え上がるような、そんな思いに駆り立てられたのです。

 エマオの町についたとき、二人は旅人に、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」といい、旅人を無理に引き留めました。もし二人の心が恐れや不安の中にあったなら、「旅人がどうなろうと知ったことではない。勝手に行かせてしまえ」と思ったことでしょう。しかし、このときまでに二人の心は和らぎ、周りの人のことを心配できるようになっていたのです。旅人と一緒に宿に入り、食卓を囲んだとき、二人の目は開かれ、目の前にいるのがイエスだと気づきました。二人の目が開かれたのは、二人の心が旅人に対して開かれたからではないか。わたしはそんな風に思います。

 わたしたちもいま、この二人の旅人と似たような状況に置かれているのではないでしょうか。教会はいま、社会の大きな変化の中で試練に直面しています。「わたしたちはこれからどうなるのだろう」「あんなに頑張ったのに、なぜこんなことになってしまったのだ」と考え、暗い顔になってしまうこともあるでしょう。しかし、そんなときこそ、周りの人たちに目を向けたいと思います。暗闇の中で旅を続けている人、深い苦しみの中にある人は、わたしたちの周りにもたくさんいるのです。その人たちに目を向け、その人たちに心を開くとき、その人たちのために「わたしに何かできないだろうか」と考えるとき、わたしたちの目は開かれます。苦しんでいるその人の中にイエスがいること、その人こそイエスだったことに気づくのです。このような試練のときこそ、苦しんでいる他の人たちに関心を持つことができるよう、その人たちの中にイエスを見出し、その人たちに助けの手を差し伸べることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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