第7回 マザー・テレサに学ぶ祈り①
今週と来週の2回に分けて、マザー・テレサの言葉を手がかりに祈りとは何かを考えてみたいと思います。
Ⅰ.すべては沈黙から
1.沈黙からの出発
マザーは、沈黙をとても大切にしていました。沈黙からすべてが始まると言っていいくらい、彼女の生活にとって沈黙はなくてはならないものだったのです。
(1)沈黙の実りは祈り
「沈黙の実りは祈り、
祈りの実りは信仰、
信仰の実りは愛、
愛の実りは奉仕、
奉仕の実りは平和。」
The fruit of silence is prayer.
The fruit of prayer is faith.
The fruit of faith is love.
The fruit of love is service.
The fruit of service is peace.
これはマザー・テレサが自分の活動を要約して語った言葉です。マザーはこの言葉を小さなカードに印刷し、自分の名刺として彼女のもとを訪れる人々に配っていました。
この言葉から、マザーにとって沈黙がどれほど大切だったかが分かります。沈黙なしに祈りはなく、祈りなしには信仰も、愛も、奉仕も平和もないというのです。彼女の活動のすべては沈黙から始まっていたということです。
この言葉の通り、彼女の一日の生活は沈黙の祈りから始まっていました。早起きして朝5時前に聖堂に行くと、他の修道女たちがまだ身づくろいをしている中、一人聖堂で祈るマザーの姿をよく見かけたものです。まず沈黙から始め、それから朝の祈りの共唱、ミサへと進んでいく、それが彼女の毎日の生活のリズムだったようです。
(2)神は沈黙の友
マザーは次のようにも言っています。
「神は沈黙の友です。わたしたちは神を見つけなければなりませんが、騒音や興奮の中に神を見いだすことはできません。自然が、木が、花が、草が、深い沈黙の中でどうやって成長していくかを見なさい。」
神はわたしたちの体を揺さぶり、感情を高ぶらせるような強い刺激の中にはいないとマザーは言います。感情が高ぶるとき、わたしたちは感情に飲み込まれて自分を見失ってしまうからです。自分を見失った状態で神を見つけるのは困難でしょう。
むしろ神は、深い沈黙の中におられるとマザーは言います。木や花や草は、余計なことを一切考えず、完全な沈黙の中で神の恵みを全身に浴びて育っていきます。木や花や草は、何ものにも惑わされることなく、深い沈黙の中で神の恵みを受け入れながら成長していくのです。
(3)沈黙の恵み
上記のマザーの言葉は、次のように続いていきます。
「沈黙の祈りの中で受け取れば受け取るほど、活動の中でより多くのものを与えることができます。」
マザーは、貧しい人々や若いシスターたちに朝から晩まで喜びや力を分け与え続けました。どこでそんなにたくさんの喜びや力を手に入れたかといえば、それは沈黙の祈りの中でだったのです。
この言葉は、マザーの名刺に記された言葉をわたしたちにより深く理解させてくれます。沈黙の祈りの中で神から受け取った恵みは信仰の土台となり、信仰は愛の奉仕を生みます。愛の奉仕の中で、わたしたちは神から無償で受け取った恵みを、無償で人々と分かち合っていきます。そうやって世界中に神の愛の輪が広がっていったとき、本当の平和が生まれるのです。
(4)静かにささやく声
沈黙の中に神はおられるというマザーの言葉は、旧約聖書の次の言葉と響き合うものです。
「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(列王記Ⅰ19:11-13)
神の山ホレブの洞窟に隠れていたエリヤの前を、夜半に神が通り過ぎた場面の描写です。神は山を裂き、岩を砕くような激しい風の中にはおられませんでした。地震や火の中にもおられませんでした。神は、人の心を動揺させ、自分を見失わせてしまうような強い刺激の中にはおられなかったのです。
神は、静かにささやく声の中におられます。神は、静まり返った闇の中から響いてくる小さな声の中におられるのです。もしわたしたちの心が騒音で満たされ、興奮に我を忘れていれば、その小さな声を聞くことは決してできないでしょう。
2.舌の沈黙・目の沈黙
マザーがこれほど大切にしていた沈黙、聖書の伝統の中でも神との出会いの場とされる沈黙、それは一体どのようなものなのでしょう。次のマザーの言葉を手がかりに、より深く考えてみたいと思います。
「わたしは絶えず沈黙に帰ります。舌を沈黙させればイエスに語りかけることができますし、目を沈黙させれば神が見えるようになります。」
「舌の沈黙」と「目の沈黙」、どうもこの2つの言葉がキーワードになりそうです。
(1)舌の沈黙
舌の沈黙には、次の2つの段階があるように思います。
①物理的な沈黙
舌の沈黙とは、まず第一にはおしゃべりをやめることでしょう。話し続けている限り、わたしたちは静けさの中で呼びかける神の声に気づくことができないからです。
わたしたちの舌は制御が非常に難しいので、しゃべっているうちに誰かを傷つけたり、自分自身を傷つけたりせずにはいません。しゃべった言葉は、必ず自分の心に戻ってきます。そして、心をかき乱し、静けさを損なうのです。無駄なおしゃべりをやめることが祈りへの第一歩であることは、間違いないでしょう。
②心の沈黙
舌を沈黙させても、心はなかなか静まりません。口を閉じても、心はしゃべり続けるからです。
わたしたちの心の中には、いつでもたくさんの声が響いています。「あれをしなければ」、「あれが欲しい」、「あの人はなぜあんなことを言うのだろう」、「あいつさえいなければ」などなど、わたしたちは口を開けて話していないときも心の中でいろいろなことをしゃべり続けているのです。
心の中に湧き上がってくるそのような思いのうち、大半は無駄なおしゃべりのようなものです。心の表面に響き渡るそれらの声は、わたしたちの心をかき乱し、わたしたちが静けさの中で神の声に耳を傾けるのを妨げます。これらの声を沈黙させ、心を静めることこそ、舌の沈黙の一番難しいところだろうと思います。
③イエスの語りかけ
マザーは、次のように言っています。
「あなたたちは、イエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いたことがありますか。イエスは心の静けさの中で語りかけながら、あなたたち一人ひとりがその声に耳を傾けるのを待っているのです。」
心がおしゃべりを続け、わたしたちの耳がその声に占領されているときにも、イエスはわたしたちの心の底から愛情のこもった声で静かに語り続けておられます。無駄なおしゃべりにばかり耳を傾け、その声を無視するのは、とてももったいないことです。マザーは次のようにも言っています。
「大切なのは、わたしたちが何を言うかではなく、神がわたしたちに何を言われるかです。」
自分の人生にとってどちらが本当に大切な言葉なのか、しっかり聞き分けることが大切でしょう。どうでもいいような声には耳を傾けず、心の奥底から聞こえてくる静かな声に耳を傾けようとするとき、わたしたちの心に沈黙が訪れるのではないかと思います。
④神に語りかける
一方的なおしゃべりは、神への語りかけではありえません。相手の言葉に耳を傾けながら、その言葉に合わせて自分の言葉を発していくのが本当の対話であり、語りかけです。もしイエスに話しかけているつもりでも、その話しかけが一方的なものであれば、それは語りかけにならないのです。
心を静め神の語りかけに耳を傾けた時、舌の沈黙は成し遂げられ、わたしたちは神に語りかけることができるようになるでしょう。舌を沈黙させたとき、わたしたちは本当の意味でイエスに語りかけることができるようになるのです。
⑤「魂の耳」
完全な舌の沈黙の体験は、マザーの霊性についてお話しした時に出てきた「魂の耳」が開かれる体験と同じことだろうと思います。物理的な音を聞くのでもなく、心の表面に鳴り響く欲望の声を聞くのでもなく、ただ静かに語りかける神の声を聞こうとする耳、それこそが「魂の耳」です。
マザーの体験からも分かる通り、「魂の耳」は神の恵みによってしか開かれません。同じように、「舌の沈黙」も神から与えられる恵みです。心の騒音が鳴りやまないとき、沈黙の恵みが与えられるよう願うこと自体が、すでに祈りの始まりです。沈黙を求める心から祈りが始まるのです。
(2)目の沈黙
目の沈黙にも、2つの段階があるように思います。
①目を閉じて見る
目の沈黙も、まず目を閉じることから始まると思います。見た目の美しさやセンセーショナルな映像などに心を奪われているとき、わたしたちの目はそれらのもたらす強い刺激によって騒ぎ立っています。目を閉じ、それらの刺激を遮断したとき、わたしたちの目に映り始めるもう一つの世界があります。
マザーは、次のように言っています。
「あなたたちは、イエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを、自分の魂の目で見たことがありますか。あなたたちは本当に生きているイエスを知っていますか。」
目を閉じ、イエスの愛に心を向けたとき開かれるもう一つの目があるとマザーは言います。肉の目を閉じたとき、「魂の目」が開かれるというのです。「魂の目」を開かれたときにのみ、わたしたちは愛情深いイエスのまなざしに触れることができるのです。
「魂の目」は、単なる想像力とは違います。それは、何かもっとリアルなものです。目には見えない世界を、あたかも目の前にあるかのようにわたしたちの前に出現させます。現実にはないものですが、見ているわたしたちにとっては現実にあるものよりももっとリアルな「現実」がそこに現れるのです。
ではどうしたら、そんな見方をすることができるのでしょう。「魂の目」が開かれるのでしょう。そのためには信仰が必要だと思います。わたしたちを熱望しているイエスの愛を信じ、見えないイエスに心の目を注ぎ続けたとき、わたしたちはイエスの存在を垣間見ることができるのだろうと思います。マザーは、次のように言っています。
「キリストへの深い、熱心なまなざしは一番よい祈りです。わたしは彼を見、彼はわたしを見ます。」
イエスの愛を確信し、一心不乱にイエスの姿を探し求めるとき、わたしたちのまなざしは祈りへと変わっていきます。そのとき、わたしたちの「魂の目」は開かれ、愛情深いイエスのまなざしに出会うことができるのです。
②見えているものの向こう側を見る
肉の目を開いているときにも「魂の目」を開き続けることはできます。マザーは次のように言っています。
「御聖体のうちに、わたしはキリストをパンの形で見ます。スラムでは、キリストを貧しい人々の心痛む姿の中に見ます。傷ついた体、子どもたち、そして死にかけた人々の中にです。だからこそ、わたしはこの仕事ができるのです。」
マザーは御聖体の中に、そして貧しい人々の中にキリストを見ていました。もし肉の目だけで見たとしたら、御聖体や貧しい人々の中にキリストを見るのは困難だったでしょう。マザーは、肉の目を開いているときも「魂の目」で相手を見ていたのです。
「魂の目」は、目に見えているものの向こう側に広がったもう一つの世界を見せてくれます。「魂の目」が開かれたとき、わたしたちは肉の目に見えるものを通して、その向こう側にある「神の愛」の世界を垣間見ることができるのです。マザーは、目に見えるものの向こう側まで見通す目を与えられた人だったのだと思います。
わたしたちの体験の中でも、とても美しい景色を見たときにその景色に心を奪われ、時間も空間も忘れて恵みの世界にいざなわれるというようなことがあるでしょう。マザーも、人々への愛ゆえに貧しい人たちの中に美しさを見出し、その美しさを通してキリストに出会っていたのかもしれません。
③「愛を得るための観想」
聖イグナチオが『霊操』の最後に記した「愛を得るための観想」は、「魂の目」で世界を見るとはどういうことかをわたしたちに教えてくれます。
「神がいかに被造物のうちに住んでおられるかを見る。つまり、物質の元素には存在を与えながら、植物には成長を、動物には感覚を、人間には思考力を与えながら住んでおられる。従って、わたしを存在させ、生きさせ、感じさせ、考えさせながら、このわたしのうちにも神が住んでおられる。」
もしわたしたちに見る目さえあれば、この世界は神の恵みであふれています。あらゆる被造物は、神の恵みを宿して光り輝いているのです。「魂の目」が完全に開かれるとき、この世界は光に満ちたまったく別の姿でわたしたちの前に現れることでしょう。聖イグナチオは次のようにも言っています。
「すべての良い物と賜物がいかに天上からくだるかを見る。たとえば、わたしの限られた能力が天の限りない最高の能力から下り、正義と善良さ、思いやりと憐みなども同様である。あたかも太陽から光線が、泉から水が流れ出るごとくである。」
この世界には、いつも神の恵みが天から豊かに降り注いでいます。この世界は、神の恵みに満ち溢れた世界なのです。「魂の目」でその恵みを見ることができれば、わたしたちはもはや「神の国」に足を踏み入れたのも同然でしょう。そこに、祈りの一つの到達点があるように思います。
3.まとめ
「沈黙」をキーワードにして、マザー・テレサの祈りについて説明してきました。 舌の沈黙、目の沈黙によって魂が静まりかえったとき実現するイエスとの出会い、マザーにとってそれこそが祈りに他ならないと言えるでしょう。
深い沈黙の中で、マザーは愛情深いイエスのまなざしを見、語りかけを聞いていました。そのような親密な出会いが彼女に喜びと力を与え、貧しい人々への奉仕を可能にしていきました。彼女の活動のすべては沈黙の中での祈りから始まっていたのです。「神は沈黙の友です」というマザーの言葉を、深く心に刻みたいものだと思います。