バイブル・エッセイ(352)ゆるされるために

【お知らせ】6月17日から21日まで、ベトナム研修旅行で日本を離れるため、ブログのアップができなくなります。帰ったら、ベトナムの報告などからブログを再開したいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

ゆるされるために
 「イエスは、シモンに言われた。『この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪をゆるされたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。ゆるされることの少ない者は、愛することも少ない。』」(ルカ7:44-47)
 「多くをゆるされた人は、多く愛する。」この真理を示すために、イエスはまず借金を帳消しにしてもらった人たちのことを例えに出します。500デナリの借金をゆるしてもらった人と、50デナリの借金をゆるしてもらった人では、500デナリゆるしてもらった人の方が多くを愛するということです。この例えで言うならば、わたしたちの多くはきっと、500デナリをゆるしてもらっていながら、自分には50デナリしか借金がなかったと思い込んでいる状態なのではないかと思います。500デナリゆるしていただいたのに、50デナリ分しか神を愛していないのです。500デナリゆるしてくださった神の愛をしっかりと受け止め、それと同じくらいの愛で神を愛するために、わたしたちはまず、自分がどれだけ神に負債を負っているのか、自分がどれだけ罪深いのかを知らなければなりません
 ですが、自分の罪深さを知るとはどういうことでしょうか。自分はこんな悪いことをした。あんな恥ずべきことをしてしまった。ダメな人間だ。生きている価値がない。そのように自分を責めることでしょうか。それは、まったくの見当はずれです。自分のことだけを見て自分を責め続けている限り、わたしたちは自分の罪について何も知ることができません。なぜなら、キリスト教における罪とは、一人子イエスを与えるほどわたしたちを愛してくださった神の愛を裏切り、神を悲しませることだからです。罪とは、自分自身の問題ではなく、わたしたちを愛してくださる神と、その愛にこたえて神を愛するわたしたちとの間に生じるものなのです。
 自分がどれだけ神の愛を裏切ってしまったか、神を悲しませてしまったかを知り、自分の本当の罪深さを悟るために、わたしたちは自分の弱さや不完全さから目を離し、神の愛を知らなければなりません。謙遜な心で、自分がこれまでの生涯でどれだけ神を裏切り、悲しませてきたかを思い起こしてみましょう。自分の利益のために誰かを利用したり、傷つけたり、自分自身の「神の子」としての尊厳を汚すようなことをしてしまったり、そんなことがどれだけあったことでしょう。しかし、神はそのすべてをゆるし、わたしたちに必要なすべてのものを与えて下さったのです。だからこそ、わたしたちは今、こうしてここにいることができるのです。神がどれだけゆるしてくださったか、どれだけ愛してくださったか、そのことに気づけば気づくほど、わたしたちは自分の罪深さを悟って、神を一層愛することができるようになるのです。自分の罪深さを知るとは、自分がどれだけ神から愛され、ゆるされているかを知ることだと言っていいでしょう
 「罪深い女」は、イエスの足元にひれ伏して涙を流しました。その涙は、自分の罪深さを責める涙ではありません。たくさんの罪を犯して神を悲しませてしまったのに、そんな自分をゆるしてイエスのもとに導いて下さった、神への感謝の涙だったのです。この涙が、彼女がどれだけ自分の罪を深く悟り、多くをゆるされたかをはっきりと示しています。だからこそ彼女は、ゆるされた分にふさわしいだけ神を愛することができたのです。
 この女性と同じように、わたしたちも自分の罪深さを悟り、ゆるしてくださった神に心からの感謝を捧げたいと思います。そうすることでのみ、わたしたちは神の愛にふさわしくこたえ、神の愛の中で救われることができるのです。
※写真…京都、大原三千院にて。2012年撮影。