バイブル・エッセイ(1096)すべてを売り払っても

すべてを売り払っても

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46)

「天国は次のようにたとえられる」といって、イエスは宝が隠されている畑や、高価な真珠を見つけた人の話をしました。その人たちの行動の中に、天国に入るための秘密が隠されているということでしょう。「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」「持ち物をすっかり売り払い、その真珠を買う」とほぼ同じ表現が2回繰り返されていることがとても印象的です。つまり、天国の素晴らしさに気づいたならば、他のものはすべて売り払ってもかまわない。天国にはそのくらいの価値があると気づいた人だけが、天国に入ることができるということでしょう。
 天国とは、すべての人が互いにゆるしあい、愛しあって生きる世界だと考えたらよいでしょう。死んだ後に行く世界でもありますが、この地上でも、少しずつ実現していく世界。生きている間から、その喜びを味わうことが出来る世界でもあります。もしわたしたちが互いにゆるしあい、愛しあうことができるなら、地上に生きているうちからわたしたちの間に天国が実現するし、生きているうちから天国の喜びを味わうことができるのです。
 しかし、それがわかっていても、わたしたちはなかなか天国を実現することができません。それは、さまざまなものにしがみついているからです。たとえば、困難の中で助けを求めている人がいるときに、「こんな人に関わるのは時間とお金の無駄だ」と思って無視するなら、わたしたちは天国への扉を自分から閉ざしてしまうことになるでしょう。「この人を何とかして助けたい」と思って、自分の時間やお金さえその人のために喜んで差し出そうとするとき、天国への扉は開くのです。互いに愛しあって生きる喜びのためなら、自分の時間やお金を差し出すことさえまったく惜しくない。そう思える人だけが、天国に入れるのです。
 もう一つわたしたちがしがみついてしまいがちなもの、それはよくない意味でのプライドだと思います。誰かと喧嘩をしているとき、「悪いのは相手だ。なんでこちらから謝ったり、仲直りしようとしたりしなければならないんだ」と意地を張っている限り、わたしたちは決して天国に入ることができません。「この人とまた仲よく、幸せに暮らしていくためなら、自分のプライドなどどうでもいい」と思って、喜んで自分から頭を下げるとき、天国への扉が開くのです。互いに愛し合って生きる喜びのためなら、自分のプライドを差し出すことくらい何でもない。そう思える人だけが、天国に入れるのです。
 パウロは、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリ3:8)といっています。天国に入るために必要なのは、まさにこの信仰だといってよいでしょう。イエスから愛され、イエスの愛に突き動かされて互いに愛し合って生きる、そのこと以上に価値があるものなどない。そう確信して、他のすべてを喜んで手放せるほどの信仰。それこそが、天国への鍵なのです。「持ち物をすっかり売り払って」も天国に入りたい。そう思えるほどの信仰を持てるよう、心を合わせて祈りましょう。

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