バイブル・エッセイ(474)天国に富を積む


天国に富を積む
 エスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:17-27)
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とイエスは言います。金持ちは天国に入ることができないと言うのではありません。金持ちでも、富への執着を断ち切ることさえできれば天国に入ることができるはずです。ですが、それは「らくだが針の穴」を通るよりも難しいのです。
 金持ちが天国に入りにくいというのは、確かにその通りかもしれません。人間は、財産が増えれば増えるほど、傲慢になってしまいがちだからです。傲慢になった金持ちは、まるで世界は自分のためにあるように考え始め、周りの人たちが自分の思った通りに動いてくれないことに不満を抱くようになります。家族や友人、知人たちが自分の思った通りにならないことに腹を立てはじめるのです。傲慢が高じると、世の中が自分の思った通りに動かないことにさえ不満を抱くようになります。自分の都合のいいように動かない社会は、間違っていると考えるようになるのです。こうして不満や怒り、憎しみが、金持ちの心をむしばんでゆきます。
 金持ちの心は、不安や恐れにも苛まれます。自分が蓄えた財産を誰かに奪われるのではないかと疑い、不安や恐れに駆り立てられるようになるのです。不安や恐れに駆り立てられた金持ちは、自分の財産を守ることばかり考え、周りの人たちの苦しみが見えなくなりがちです。自分のことしか考えられなくなった金持ちは、周りの人たちから疎んじられ、一人ぼっちで取り残されることにもなるでしょう。こうして、金持ちになったがゆえに、自分で自分の心を滅ぼしてしまう人が多いのです。天国に入りたいなら、どうしても財産への執着を断ち切らなければならないのです。
 青年の心が財産への執着によって縛られていることを見抜いたイエスは、青年を深く憐れみ、財産を分かち合うことを青年に勧めます。神を信じて財産を分かち合う。それだけが、財産への執着から解放される方法だからです。財産を貯め込もうとするとき、わたしたちの心は不安と恐れで満たされますが、分かち合おうとするとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。分かち合うとき、人の役に立つことができた喜び、人を愛する喜びがわたしたちの心を満たすのです。この喜びを味わうとき、わたしたちは初めて自分の人生の意味を知り、本当の幸せを味わうことができます。そして、分かち合いにこめられた愛は、天に富として積まれるのです。分かち合うことによってのみわたしたちは幸せになり、「天に富を積む」ということを、青年は学ぶ必要があったのです。
 地上に富を積んだ人にとって、天国に行くことはすべてを失うことであり、悲しみ以外の何ものでもないでしょう。「これだけ頑張って財産を集めたのに、自分の人生には一体どんな意味があったのか」ということになるからです。天国に富を積んだ人にとって、天国に行くことは喜び以外の何ものでもありません。「手元には何も残らなかったが、たくさんの人たちに喜んでもらうことができた。天国にはたくさんの宝が積まれた。わたしの人生には、確かに意味があった」と、納得して天国に旅立つことができるのです。
 地上で「神の国」の幸せを味わうため、人生の終わりに「神の国」へ喜んで旅立つために、わたしたちは分かち合うことを学ぶ必要があります。すべてを分かち合うための信仰を、主である神が与えて下さいますように。