バイブル・エッセイ(1098)水の上を歩く

水の上を歩く

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14:22-33)

 「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」とマタイ福音書は記しています。イエスを信じ、イエスの言葉に従って歩いているあいだは沈まなかったが、風を恐れ、「沈むのではないか」と疑ったとたんに沈み始めたというのです。これは、わたしたちの人生でもよく起こることではないでしょうか。信じているあいだはできたことでも、疑ったとたんにバランスを崩し、できなくなってしまうことがあるのです。
 わたしにとっては、神父として生きていくこと自体が、水の上を歩くようなものだと思っています。「イエスに呼ばれたのだから、ただイエスの後についていく」と覚悟を決めていればなんとかなるけれど、「自分にこんなことができるのだろうか」と疑い始めるとたちまち沈んでしまう。そのようなことが多いのです。
 たとえば、聖書の言葉を使いながら人の前で説教をするということでも、一度、疑い始めるとできなくなります。「こんな弱くて罪深いわたしに、神さまのことを偉そうに語る資格があるのか」と考え始めると、体が震え、緊張して話せなくなるのです。しかし、しばらく祈って、「神さまは、わたしの弱さを知りながら、それでもこの道に招いてくださった。神さまから与えられた使命を果たそう」と思えるようになると、体の震えが止まります。イエスがしたように、自分も人々のもとに神さまの愛を届けたい。そのことだけを考えていれば、どんなに多くの人の前でも自信を持って話すことができるのです。
 小教区を任され、リーダーシップをとっていくということだって、一度、考え始めるとなかなか恐ろしいことです。「果してこの信者さんは信頼できるのか」と疑い始めると、もう誰も信頼できなくなって、信者さんたちとの関係を作れなくなってしまうのです。しかし、「この人の中にもイエスがおられる。たとえ裏切られても、何度でもゆるし、何度でも信頼しよう」と思っている限り、どんなトラブルがあっても沈まずに歩いていくことができる。そのようなものだと思います。
 司祭として神さまに生涯を捧げるということ自体、一度、疑い始めると恐くなります。「こんな生活を、あと何十年も続けられるのだろうか」と考えると、途端に怖くなってしまうのです。これは、典型的な悪魔のささやきだろうと思います。わたしたちは、先のことを考えるとき、苦しいことばかり想像して、同時に必ず与えられる恵みのことは想像しないのです。「これまでわたしを導いてくださった神さまは、これからも必ず導いてくださるに違いない」と信じている限り1日、また1日と何とか司祭職を全うしていくことができる。そのようなものだと思います。
 わたしの例でお話ししましたが、これは皆さんにも同じように当てはまるでしょう。自分に与えられた使命を見失わなければ、必ずその使命を果たすための力は与えられる。相手を信じて疑わなければ、どんなトラブルも必ず乗り越えられる。これから先、たくさんの苦しみがあるかもしれないが、同時に神さまはたくさんの恵みも与えてくださる。そう信じて、イエスの後についていくことができるよう、水の上を歩き続けることができるように祈りましょう。

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