隅の親石
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21:33-43)
神のことを思わず、自分たちのことばかり考えているエルサレムが、やがて滅亡することを暗示する箇所が読まれました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という詩編の言葉が、最後に引用されているのが印象的です。家を建てる者とは、自分たちのことばかり考えている祭司長や長老たち。捨てられた石が、神にすべてを捧げて死んだイエスだと考えたらよいでしょう。
神のことだけを思って生きている人が、周りの人からうとんじられ、外に追い出される。そのようなことは、実際にあります。たとえば、ある神父さんは、社会の片隅に追いやられて苦しんでいる人たちにとても関心があり、その人たちに手を差し伸べることこそ神のみ旨だと確信しています。ところが、そのことを強くいうと、どこでも周りの人たちから敬遠されてしまうのです。人それぞれに事情がありますから、「そんなことはわかっているけれど、こちらにもゆとりがない」といって神父さんの話を聞き流す人たちの気持ちもわかります。特に「社会の片隅」というわけでもない普通の生活の中にも、さまざまな苦しみがひそんでおり、それに寄り添うことも神のみ旨にかなうという主張ももっともです。遠くの人たちより、まず自分の身近な人たちの世話をすべきだというのも、正しい主張といえるでしょう。結果として、その神父さんの主張は、あまり顧みられることなく、教会の外に追いやられてしまうのです。
しかし、その神父さんの周りにはたくさんの人が集まってきます。なぜなら、その神父さんにはまったく裏表がないからです。社会の片隅に追いやられた人たちの苦しみを熱心に語るその神父さんは、自分自身も徹底的に貧しい生活をしています。使えるものは最後まで使おうとするので、鉛筆などは、最後の数センチまでサックをつけて使います。実際に困っている人を見かけると、迷わずに助けの手を差し伸べ、その人にとことん寄り添います。その神父さんの生活を見ていると、「この人なら信頼できる」と思わずにいられませんし、実際、たくさんの人がこの神父さんを心の支えにして生きているのです。このような神父さんこそ、教会を支える「隅の親石」、何があってもびくともしない、信頼できる土台の石だといっていいでしょう。
いまの話は、わたしが知っている何人かの神父さんのことを混ぜてお話ししましたので、特定のモデルはいません。しかし、神のみ旨をまっすぐに生きているがゆえにうとんじられ、外に追い出された人が「隅の親石」になっていることは、実際によくあるのです。いまの教会がしっかりと立っているのは、そのような人たちがいるからだといってもいいくらいです。そもそも、イエスがそのような方でした。
教会の先行きが心配されているいまこそ、「隅の親石」の信仰が求められているのではないかと思います。それぞれが、それぞれの仕方で、神のみ旨をまっすぐに貫いて生きることができるように、そうすることで教会の土台をしっかりと支えることができるように、心を合わせて祈りましょう。
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