バイブル・エッセイ(472)聖霊の恵みを生かす


聖霊の恵みを生かす
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。(マルコ9)
 先週の朗読箇所では、イエスの弟子たちの間での言い争いの場面が読まれました。誰が偉いかと言い争っている暇があれば、互いに仕え合いなさいということです。今日の場面で「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とイエスは言っています。弟子たちの間に向けられた互いに争ってはいけないという教えが、キリストを信じる他のグループの人たちとの関係にも当てはめられたのです。キリストを信じる者同士が、キリストの名を使って互いに言い争い、否定し合っている姿ほど、人々をつまずかせるものはないと言っていいでしょう。
 教会の中で、このようなことは起こりがちです。例えば、神父の前で他の神父の説教を「あの神父さんの説教は本当に素晴らしくて、心を動かされます」となどと誉めてみてください。多くの神父は「それはよかったですね」と自分のことのように喜んでくれるでしょう。ですが、中には自分の説教への批判と受け取って顔色を変える神父もいます。最悪の場合、「いや、でもあの神父にはこんなところがあって」などとその神父の悪口を言い始めるかもしれません。それは、他の神父を通して聖霊が働いたことへの妬みだと言っていいでしょう。神の栄光ではなく、自分の栄光を求めるからそういうことになるのだと思います。
 そのような神父の姿は、信徒にとって大きなつまずきです。信徒の心に、「この人たちが説教している神の愛とは一体何なのか。結局、すべて自分のためにやっているだけではないのか」という深刻な疑いを引き起こしてしまうからです。例えば、主任司祭と助任司祭がいつも言い争っているなら、それは信徒にとって大きなつまずきです。それで信徒が教会を離れるなら、その神父は「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」のかもしれません。
 神父だけではありません。教会の中で、このようなことは本当によく起こるのです。自分と違うやり方をする人たちを通して聖霊が働くのを見たとき、素直に喜ぶことができない。せっかくうまくいっていることを、自分の気に入らないからという理由で止めさせようとする。そんなことが起こりがちなのです。キリスト教徒同士が我を張り合って言い争うなら、それを見ている人たちは大きなつまずきを感じて教会を離れてゆくに違いありません。
 大切なのは、神の思いは人間の思いをはるかに越えていると素直に認めることだと思います。一人でも多くの人を救うために、神はあらゆるやり方で聖霊を送って下さいます。聖霊の働きを感じたならば、素直に認め、共に喜ぶことが大切です。自分の思った通りの聖霊でないからと言って、追い返してはいけないのです。
 お互いが競い合い、つぶし合おうとする教会は、喜びも力も失って滅びてゆきます。お互いのよさを認め合い、お互いのよさを引き出しあうことができる教会は、喜びと力に満ちて成長してゆきます。他の人を批判している時間があれば、自分に与えられた聖霊の恵みを精いっぱいに生かすことに使うべきでしょう。みんなで力を合わせて、聖霊の恵みに満たされた教会を作ってゆきましょう。