バイブル・エッセイ(1112)心に愛の火をともす

心に愛の火をともす

「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)

 「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」愚かなおとめたちは、婚宴の席に着くことができなかった、とイエスはいいます。だから、賢いおとめたちのように、花婿が遅くなっても大丈夫なくらいの油を備えておきなさいということでしょう。これが「天の国」のたとえ話だとすると、ともし火とか油というのは、いったい何のことなのでしょう。
 花婿がイエス・キリストであるとすれば、ともし火というのはきっと、イエスへの愛の火のことでしょう。イエスがいつきても、愛の火を燃やして迎えることができるように、心から歓迎できるようにということです。では、ともし火を燃やすための油とは何でしょう。それはきっと、イエスへの信頼だろうと思います。もし信頼という油がなければ、いくら待ってもイエスが来ないとき、「どうせもうこないんだ」と思ってあきらめ、愛の火を消してしまうかもしれません。しかし、信頼という油があれば、「きっとわたしにわからない事情があって遅れているだけだろう。大丈夫、きっとくる」と信じて、愛の火を燃やし続けることができるでしょう。イエスへの愛の火を燃やし続けるためには、イエスへの信頼が必要なのです。
 日々の生活のさまざまな場面で、イエスへの信頼が問われていると思います。たとえば、病気で体が動かなくなったとき、イエスへの信頼がなければ、「なぜ、わたしだけこんな目にあうんだ。わたしは神に見捨てられた」と思って、イエスへの愛を失ってしまうかもしれません。そうなれば、もし誰かがお見舞いに来てくれたとしても、「放っておいてくれ。どうせわたしなんか」というような態度で拒絶してしまうことになりかねません。お見舞いに来てくれたその人こそイエスなのに、せっかく来てくれたイエスを拒んでしまうということが起こりうるのです。
 イエスへの信頼があれば、そんなことにはなりません。もし病気で体が動かなくなっても、「イエスはわたしのことを決して見捨てない。必ず助けにきてくださる」と信じて、イエスへの愛の火を燃やし続けることができるのです。心の中に愛の火が燃えいれば、来てくださったイエスを見逃すことはありません。誰かがお見舞いに来てくれたなら、その人を大喜びで歓迎し、その人の中にいるイエスもあたたかく迎え入れることができるのです。
 イエスへの信頼を、信仰といい換えてもよいでしょう。花婿であるイエスをお迎えするためには、どんなときでも決してあきらめない信仰の油、信じて待ち続けることができる信仰の油が必要なのです。賢いおとめが、愚かなおとめに油を分けてあげることができなかったように、この油は、人から譲ってもらうことはできません。日々の生活の中で、日々の祈りの中で、信仰の油をしっかり蓄えることができるように、どんなときでも心に愛の火をともして待つことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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