バイブル・エッセイ(1115)目を覚ましている

目を覚ましている

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

 「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、あなたがたには分からないからである」とイエスが弟子たちに語りかける場面が読まれました。眠っている姿を主人に見られて、主人をがっかりさせないように、いつも目を覚ましていなさいというのです。ここでいう「眠っている」「目を覚ましている」とは、どういうことでしょうか。
 ちょうどそれを説明するような聖書の箇所が、第一、第二の朗読で読まれています。イザヤは、人間たちが罪を犯し、その結果として「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない」と書きました。これがまさに、「眠っている」状態でしょう。「どうせ神なんかいない。もうどうにもならない」とあきらめ、神にすがるのを止めてしまった状態。それこそが、「眠っている」状態なのです。一方でパウロは、信仰によってキリストとしっかり結ばれた人たちに向かって、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と書きました。これこそ、「目を覚ましている」ということでしょう。どんな状況になっても、キリストは決して私たちを見捨てない。キリストはわたしたちを愛していると確信して待ち続けること。それこそが、「目を覚ましている」ということなのです。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」とパウロは書いています。キリストに支えられることによってのみ、最後の時まで希望を捨てず、「目を覚ましている」ことができるということです。
 たとえば、病気や老いで体が弱り、死の時が近づいているのが分かり始めたとき。そんなときでも、キリストはわたしたちを支えてくださいます。なぜなら、十字架上で息を引き取ったキリストは、死を迎える人間の気持ちをよく知っていてくださるからです。「なぜ、わたしが死ななければならないのですか」とわたしたちが問いかけるとき、キリストはきっと「死を恐れるあなたの気持ちはよく分かる。だが、心配することはない。死は、永遠の命の始まりに過ぎないのだから」と答えてくださるでしょう。キリストの生涯によって証された十字架と復活の神秘が、わたしたちを最後まで支えてくれるのです。
 高齢化や若者の教会離れが進み、消えて行こうとしてる教会についても同じことがいえます。キリストは、十字架につけられたとき、すべての弟子たちに逃げられ、一人ぼっちになりました。せっかくできた教会が、あっけなく消えてしまうという苦しみをイエスは味わったのです。「教会には未来がありません。どうしたらいいでしょう」と問いかけるわたしたちに、キリストはきっと「心配することはない。あなたたちの心に愛がある限り、教会が滅びることはない」と語りかけてくださるでしょう。実際、弟子たちの心にあった愛が、イエスの死後、再び教会をよみがえらせたのです。
 キリストに支えられて、最後の時まで信仰を持ち続けることができるよう、キリストの愛を信じて、最後の時まで希望を持ち続けることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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