バイブル・エッセイ(1116)道を開く

道を開く

 神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:1-8)

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書の言葉の通り、洗礼者ヨハネが現れ、イエスのために道を準備したとマルコ福音書は伝えています。イエスが人々のもとに行くための道を整える、イエスの愛が人々の心に届くよう道を準備する。それは、洗礼者ヨハネだけでなく、わたしたち一人ひとりに与えられた使命だといってよいでしょう。
 イエスは、わたしたちの心の中に生まれます。わたしたちの心の中に生まれるやさしい気持ち、困っている人を見たら放っておけないという気持ち、他の人を苦しませるのではなく、喜ばせたいと願う気持ち。イエスは、その中におられるのです。わたしたちの心の中に宿る無償の愛こそがイエスなのだといってもいいでしょう。
 では、わたしたちの中に生まれたイエスが、人々のもとに行くのを妨げるものはなんでしょうか。それは、「なぜ、わたしがそこまでしてやらなければならないんだ」という自己中心的な思いや、「わたしには関係ない」という無関心、「どうせわたしには何もできない」というあきらめなどでしょう。せっかくイエスの愛が心に宿っても、そのような気持が湧き上がって来て、愛が動き出すのを止めてしまう。愛が人々に向かって流れ出そうとするのを妨げる。そんなことがよくあるのです。「わたし」を中心にして考え、怒ったり、無視したり、あきらめたりするそのような心の動きこそ、愛が行く道をさまたげる障害物だといっていいでしょう。
 では、どうしたらその障害物を取り除くことができるでしょうか。そのために大切なのは、考えの中心を「わたし」から「相手」に移すことだろうと思います。自分のことをいったん脇に置き、「相手はいま、どんな気持ちだろうか。どんなに苦しみ、どんなに困っているだろうか」と考えるようにするのです。そうやって相手の気持ちを想像するうちに、不思議と道が開けます。「わたしは忙しい。疲れている。これ以上は何もできない」という頑なな思いでふさがれていた心に道が開き、「でも、このくらいならまだできる。困っているこの人を、放っておくことはできない」という思いが生まれてくるのです。そうやって、道を一つひとつ開き、イエスの愛が人々の心に届くようにすること。それが、わたしたちに与えられた使命だといっていいでしょう。
 自分のことだけでなく、教会全体についても同じことがいえます。教会を中心にして考えると、「教会だって、高齢化や若者の教会離れで弱っている。他の人を助けているゆとりはない」ということになるでしょう。しかし、苦しんでいる人たちのことを中心に考えれば、「この人たちを放っておくことはできない。まだ何かできることがあるはずだ」という思いが生まれます。そのとき、イエスのために道が開くのです。この待降節のあいだ、イエスのために道を準備し、イエスのために道を開くことができるよう、自分中心の思いを捨て、わたしたちの周りにいる人たちの苦しみに寄り添うことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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