バイブル・エッセイ(1124)何を求めているのか

何を求めているのか

 ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1:35-42)

 「何を求めているのか」というイエスの問いに、ヨハネの弟子たちが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と答える場面が読まれました。「『神の小羊』と呼ばれるわたしに、あなたたちが求めているものは何か」という問いに対する答えとしては、ちょっとちぐはぐなものに聞こえますが、とっさの答えとしては意外と本質を突いているかもしれません。なぜなら、その人が住んでいる場所を見れば、その人が何を求めて生きている人なのかがよく分かり、その人に対して何を求めたらいいのかもよく分かるからです。
 たとえば、いまインドのコルカタにある「神の愛の宣教者会」本部修道院に行くと、マザー・テレサが使っていた部屋を見ることができます。簡易ベッドと事務机、世界中から届く手紙を整理しておくための棚しかない、とても簡素な部屋です。棚の上に無造作においてある段ボール箱の中には、世界中から贈られた勲章、表彰状などが入れてあるとのことです。この部屋がわたしたちに教えてくれるのは、マザーがただ、人々に奉仕するためだけに生き、自分のためには何も求めていなかった。地上の栄光などにはまったく関心がなかったということです。この部屋を見る人は、みな、マザーがただ神の愛のためだけに生きた人だったことを知るでしょう。そのような部屋に住む人のところに、地上での贅沢や名誉を求めて集まる人はいないはずです。マザーのもとに集まる人たちも、みな、神の愛だけを求めて集まったのです。
 ヨハネの弟子たちは、イエスの住む場所にいったい何を見たのでしょう。イエスが泊っていたのがどんな場所だったのか、はっきりとはわかりません。ただ、「人の子には枕するところもない」「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」行くようにといったイエスの言葉から、洞窟のようなところで野宿をしていたのかもしれない。どこかに間借りしていたとしても、ほとんど私物のない、簡素な暮らしをしていただろうと想像されます。イエスの泊っているその場所を見たとき、ヨハネの弟子たちは、イエスが自分自身のことはまったく考えず、ただ神の愛のためだけに生きている人であることを悟ったに違いありません。そして、その場所で一緒に一晩を過ごす中で、イエスこそ神のために自分のすべてを捧げた「神の小羊」、自分たちが本当についていくべき「メシア」だと確信したのです。
「来なさい。そうすれば分かる」というイエスの言葉は、まさに現実のものとなりました。イエスの泊っているところを知り、イエスと共に過ごすことによって、弟子たちは自分たちが何を求めているのか、何を求めるべきなのかを知ったのです。もしわたしたちが、地上での成功や快楽、栄光などを求めているなら、イエスのもとに集まっても何の意味もありません。イエスがわたしたちに与えてくださるのは、ただ神の愛だけだからです。イエスの暮らしぶりを思い起こし、また自分自身の生活を振り返りながら、「何を求めているのか」というイエスの言葉をもう一度よく味わってみましょう。

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