バイブル・エッセイ(841)沖に漕ぎ出す

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沖に漕ぎ出す

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5:1-11)

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、イエスは漁師たちに呼びかけました。安全な岸辺にとどまり、浅い所に網を投げていても獲れる魚は限られている。思い切って沖に漕ぎ出し、深い所に網を投げなさいということでしょう。人間を獲る、すなわち苦しみの中にいる人たちを救うためにも、「沖に漕ぎ出す」必要があります。自分の身を危険にさらすことなく、安全な岸辺にとどまっていては、福音のメッセージを相手の心の深みにまで届けることはできないのです。
 沖に漕ぎ出すということは、これまで行ったことがない世界、未知の世界に向かって旅立つということです。例えば、今から400年以上前、フランシスコ・ザビエルら宣教師たちは、ヨーロッパから日本に向かって船出しました。嵐にあえば船団が全滅することも珍しくなかった時代の危険な航海の果てに、日本に辿りついた宣教師たちを、人々は感嘆のまなざしで迎えました。そして「なぜ、命がけでここまで来るのだろう。それほどまでにして伝えたいキリストの教えとは、いったい何なのだろうか」と、宣教師たちの教えに熱心に耳を傾けたのです。宣教師たちが投げた網、命がけで伝えた福音のメッセージは、人々の心の奥深くにまで届き、たくさんの人たちが洗礼を受けたのでした。
 わたしたちが、現代の日本で宣教するときにも、ザビエルたちに倣って「沖に漕ぎ出す」ことが必要だと思います。これまで通りのことを、同じように繰り返しているだけでは、決して魚は獲れないのです。「夜通し苦労しましたが、魚は獲れませんでした」と諦める前に、これまで出たことがない沖に向かって舟をこぎ出す勇気を持ちたいと思います。それは、たとえば、いま山口・島根地区が取り組んでいる高齢者のためのボランティア活動かもしれません。わたしたちが高齢の皆さんのところにまで出かけて行くなら、「なぜ、こんなところにまでわざわざ来てくれるんだろう。この人たちを動かしている福音とは、一体何なのだろう」と興味を持つ人たちも出てくるかもしれません。自分の身を省みることなく沖に漕ぎ出し、そこから投げる福音のメッセージだけが、相手の心の深みに届くのです。それは、二千年前にイエスがしたこととよく似ています。イエスが自分の故郷を離れ、貧しい人たち、差別の中で苦しんでいる人たちの中に出かけて行ったように、わたしたちも「沖に漕ぎ出す」ことが求められているのです。
 では、どうしたら沖に漕ぎ出すことができるのでしょうか。イザヤの召命の場面に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という言葉があります。イザヤがこう言ったのは、闇の中で苦しんでいる人々を、何とかして救いたいという神様の愛に心を動かされたからでしょう。人々の苦しみに共感し、神様の思いに触れるとき、わたしたちは沖に向かって漕ぎ出さずにいられなくなるのです。このミサの中で神様の思いをしっかり受け止め、沖に漕ぎ出して、深い所に網を投げられるように、福音のメッセージを届けられるように祈りましょう。