バイブル・エッセイ(1066)幸いとは何か

幸いとは何か

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5:1-12a) 

 「心の貧しい人々は、幸いである」という力強い宣言から始めて、イエスが真の幸いについて語る場面が読まれました。これらすべてに共通しているのは、神の愛を信じて生きる者には必ずよいことが起こる。わたしたちの幸せは、神の愛を信じることから始まるということです。

 では、神の愛を信じるとはどういうことでしょう。それは、逆に言えば、自分の力を過信しないということです。「心の貧しい人」は、自分が優れた能力や知恵を持っていないことを知っているので、自分の力を誇らず、ただ神の愛のみを信じて生きます。「悲しむ人」「柔和な人」「義に飢え渇く人」などについても、同じことがいえるでしょう。その人たちは、自分の力の限界に直面して打ちのめされ、ただ神の愛だけに最後の希望を置いて生きる人たちなのです。そのような人たちこそ幸いだとイエスはいいます。

 幸せというと、世間一般では、人から気に入られるための知恵を身につけ、賢くふるまって金持ちになること、高い地位に着くことなどを意味する場合が多いようです。しかし、現実には、金持ちになったり、権力を握ったりすることで、かえって不幸になる人が多いのです。財産や権力を手にすることによって思い上がり、周りの人たちを見下すようになる。自分の思った通りになるのが当然と考え、思った通りにならなければ腹を立てる。財産や権力を失うことを恐れ、周りの人たちを疑う。そのようなことで、財産や権力を手に入れれば入れるほど愛から遠ざかり、不幸になっていく人が多いのです。だからこそイエスはあえて、それとまったく逆のことを言ったのだと思います。「心の貧しい人」「悲しむ人」「義に飢え渇く人」の方が、かえって幸せに近いのです。

 神さまは、あえて「無学な者や無力な者」を選んで弟子とした。それは、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」だったとパウロは書簡に記しています。神の前で自分を誇ることから、人間の不幸が始まる。人間の幸せは、自分の力の限界を認め、そんな自分でさえ愛してくださる神に感謝して生きることの中にある。そのことをはっきり知らせるために、神さまはあえて、自分を誇ることができない「無学な者や無力な者」を選んで弟子にしたということです。

 キリストやパウロが示す幸せと、世間一般でいう幸せ、わたしたちはどちらを選ぶでしょうか。「もちろんキリストの幸せだ」というかもしれませんが、実際には、日々の生活の中で「なんて自分は不幸なのだ。お金もないし地位もない」などといって嘆いている、それが人間の現実だろうと思います。わたしたちの本当の幸せは、こんなわたしであっても、神さまが愛してくださっていることに気づき、神さまに感謝して生きること。神さまに感謝し、互いに愛し合って生きることの中にこそある。そのことを忘れず、いつも本当の幸せを目指して生きてゆくことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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