バイブル・エッセイ(1128)清い心で生きる

清い心で生きる

 重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(マルコ1:40-45)

 重い皮膚病の人を、イエスが「清くなれ」といって癒す場面が読まれました。当時の世の中には、病気は汚れているとか、罪の結果であるという考え方がありましたから、「清くなれ」というのは、その汚れから清めるという意味もあるでしょう。しかし、実際には病気だからといってその人が汚れているということはありえません。むしろ、イエスは、この人の心を清めたと考えるべきでしょう。

 病気になったときに、わたしたちの心に、あまりよくない思いが生まれてくることがあります。健康な人を見てうらやみ、「なぜ、わたしだけがこんな目にあわなければならないのだ」と神を呪ったり、「わたしは神に見捨てられた」と絶望したり、そのような思いは、わたしたちの心をむしばみ、生きる力を奪っていくもので、ある意味で汚れた思いだといってよいでしょう。

 もしかすると、イエスのもとにやってきた重い皮膚病の人も、心のどこかにそんな思いがあったのかもしれません。イエスは、そのように思い詰め、苦しんでいる重い皮膚病の人を見て「深く憐れみ」ました。人間誰しも、重い病気にかかれば、そのような気持になってしまうことをイエスはよく知っておられたのです。「手を差し伸べてその人に触れ」たのは、「あなたは神から見捨てられてなどいませんよ。どんな病気であったとしても、あなたはかけがえのない神の子どもなのです」ということを、目に見える形でその人に示すためだったと考えてよいでしょう。イエスの手のぬくもりを通して、重い皮膚病の人の心に神の愛が注がれたのです。

 そのとき、重い皮膚病の人の心は清められました。神を呪い、自分を苦しめる汚れた思いは去り、大きな喜びがこの人の心を満たしたのです。喜びをおさえきれなかったこの人は、自分に起こったことをたくさんの人にいい広めました。ヨハネ福音書の中でイエスが、ある人になぜ生まれつき障害があるのかと問われて、それは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答える場面がありますが、この人の病気も、まさにこの人に神の業が行われ、神の栄光が現れるためだったのです。

 清められた心、神の愛で満たされた心から、神の栄光が現れます。その人の活き活きとした表情や、全身からあふれだす喜びを通して、神の栄光がこの地上に輝くのです。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とパウロが説いていますが、すべてを神に感謝し、喜んでするなら、すべてのことを通して神の栄光が現れるという意味だと考えたらよいでしょう。たとえ病気が治らなかったとしても、たくさんの恵みの中で自分が生かされていることに感謝し、喜んでいるなら、その人を通しても神の栄光がこの地上に現れるのです。

 神がわたしたちを見捨てることはありえない。神は、どんなときでもわたしたちの苦しみに目を止め、わたしたちに救いの手を差し伸べてくださる。そこにわたしたちの希望があります。その希望を固く心に刻み、いつも喜びにあふれた清い心で生きられるよう共に祈りましょう。

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