バイブル・エッセイ(566)感謝する幸せ


感謝から始まる幸せ
 エスエルサレムへ上る途中、サマリアガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)
エスは10人の病気の人たちを癒しましたが、「神を賛美するために戻って来た」のは1人だけでした。イエスはその人に、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。病気が癒されたときではなく、癒しの恵みに感謝し、神の前にひれ伏したとき、この人に救いが訪れたのです。
 病気が治ったことに大喜びし、どこかに行ってしまった人たちは、神から与えられた恵みを当然のことのように受け止めています。「のど元過ぎれば熱さを忘れる」で、自分が苦しんでいたときのことはすっかり忘れてしまっているのです。このような人たちは、遅かれ早かれ神に不満を言うようになります。元気になれば、次には食べ物を求め、衣服を求め、さらに財産や名誉を求めるようになるのです。神がどんなに与えたとしても、決して満足することがありません。「もっともっと」と多くを求め、与えられなければ神に不満を言うのです。健康を取り戻したとしも、幸せになれないこのような状態はとても「救い」と呼べません。
 わたし自身にも、そんな経験があります。わたしは毎年、9月20日になると神に心からの感謝を捧げます。それは、叙階の記念日だからです。ですが、叙階されて数年のあいだ、わたしはこの記念日を思い出すことがありませんでした。神父になってしばらくのあいだは、「よし、神父になったぞ。これもやりたい、あれもやろう」とばかりに様々なことに手を出し、叙階されたという事実に感謝することがなかったのです。まるで、神父になったことは当たり前と思っているようでした。
 ですが、数年たって最初の勢いが衰えてくると、自分が神父になったことについて神に不満を言うようになっていきました。日々の仕事に疲れを感じる中で、「なぜ、こんなめにあわなければならないのですか。こんなはずではなかった」などと思うようになっていったのです。神父であることを当然のように思い、そのことに不満さえいうようになったのです。しばらく仕事を離れて祈る中で、わたしは、これまで一度も叙階の日のことを思い出して感謝することがなかったことに気づきました。叙階の恵みを十分に感謝し、しっかりと受け止めていなかったのです。わたしはまだ、救われていなかったのです。神様からいただいた恵みを、しっかりと心に刻み込んでいなかったのです。
 救いは、神から与えられた恵みに感謝し、神がわたしたちをどれだけ愛しておられるかを心の底から実感したときに訪れます。「神は、わたしをこれほどまでに愛して下さっている」。そう実感するとき、わたしたちの心に救いが訪れるのです。喜びと力が湧き上がり、顔には静かなほほ笑みが浮かぶのです。
 救われた人は、仮に自分の思った通りにならないことがあったとしても、神に不満を言うことがありません。すべては、神様からいただいたものであり、自分の力で手に入れたものなど何もないと気づいているからです。救われた人は、いつも神に感謝し、満たされた心で幸せな日々を送ることができます。それこそが救いなのです。神に感謝する心を忘れず、いつまでも救いの恵みのうちに留まることができるよう祈りましょう。