バイブル・エッセイ(1129)神のゆるしを信じる

神のゆるしを信じる

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:1-6、16-18)

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」とイエスは弟子たちに語りかけました。神さまがどう見ておられるかよりも、人間からどう見られるかということを優先に考えてしまうわたしたち人間の弱さを、イエスはよく知っておられたのです。
 わたしたちは、神さまからどう思われるかより、周りの人たちからどう思われるかを優先して考えてしまいがちです。目には見えない神さまの愛よりも、目に見える周りの人たちからの評価の方を気にしてしまいがちなのです。その結果、わたしたちは、いつも周りの人たちの目におびえて暮らすことになります。「こんなことをして、悪く思われたらどうしよう」と心配し、何か失敗してしまったときには、「みんなから嫌われた。もう駄目だ」と思い込んで絶望する。そんなことを繰り返してしまいがちなのです。
 パウロは、そんなわたしたちに、「神と和解させていただきなさい」と勧めます。何より大切なのは、人間からよく思われることではなく、神さまとの関係をしっかり結ぶこと。神さまの愛の中にとどまり続けることだというのです。神さまは、弱くて罪深いわたしたちを、あるがままに受け入れ、ゆるしてくださった。そのことを信じ、神の恵みの中にとどまり続けること。人からの評価に左右されることなく、いつも神さまからゆるされた者としてふさわしく生きること、それこそが救いだとパウロは考えていたのです。
 自分は神さまからゆるされていると信じること。それがすべての出発点となります。「こんなわたしを、神さまはゆるしてくださった。この愛に感謝し、この愛にふさわしく生きてゆこう」と決心することから、わたしたちのすべてのよい行いが生まれるのです。よい行いとは、神さまへの愛から生まれる行いのことだといってもよいでしょう。施しをするにしても、祈るにしても、断食をするにしても、神さまへの愛に駆り立てられたものでない限り、わたしたちの救いには何の役にも立たないのです。
「こんなわたしがゆるされるはずなどない。わたしは愛される価値がない人間だ」という疑いを、きっぱり捨て去る必要があります。それは、神さまの愛を疑っているということだからです。そのような態度は、一見、謙虚にも見えますが、実際には、神さまの愛を見くびり、神さまの愛を疑う傲慢な態度です。悪魔は、わたしたちのそのような傲慢につけこんでわたしたちを誘惑します。心に傲慢さがあると、「お前なんか、神からゆるされるはずがない。神はお前を厳しく裁くだろう」という悪魔の言葉にのって、自分の価値を否定し、自暴自棄になってしまうことがあるのです。
 「神さまは、こんなわたしでもゆるしてくださる。神さまはわたしを愛してくださっている。わたしの人生には、確かに価値がある」、そのことをしっかり心に刻み、悪魔の誘惑を退けることができるよう。神さまに愛された子どもとしてふさわしく生きていくことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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