バイブル・エッセイ(1132)本当のいけにえ

本当のいけにえ

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2:13-25)

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」たとヨハネ福音書は記しています。イエスの激しい怒りが感じられる場面です。「神からゆるされるためには羊や牛を捧げなければならない」と勝手に決め、人々の信仰を利用して金儲けをしている人たちを、放っておくことができなかった。神殿のありさまを見たイエスの悲しみは、それほどまでに深かったということでしょう。
 いけにえの動物を売るということは、形式的にいけにえさえ捧げておけばいいのだという勘違いや、自分はいけにえを捧げているから、捧げられない連中より偉いのだという思い上がりを生み、いけにえを捧げる人たちを神から遠ざけます。そればかりでなく、いけにえの動物を捧げられない人たちの心に、自分はいけにえを捧げられないから神にゆるされない。いけにえを捧げられる人たちより劣った人間だという思い込みを生み、いえにえを捧げられない人たちを神から遠ざけます。いけにえの動物を売るという行為は、いけにえを捧げる人も、捧げられない人も神から遠ざけ、誰も幸せにしない行為だとイエスは見抜いていました。だからこそ、ひどく悲しみ、激しい怒りを表したのだと思います。
 いけにえなど捧げなくても、神はすべての人をゆるしてくださる。悔い改めて立ち返る人、自分の間違いに気づいて神の愛に戻ってくる人を、神は誰一人拒むことがない。イエスが伝えた福音とは、そのようなものでした。詩編51に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とあるように、神のもとに帰るときに唯一必要ないけにえは、自分の間違いに気づいて悔い改める心、自分の弱さに気づいてプライドを打ち砕かれ、神に助けを求める謙虚な心なのです。
 現代の教会には、いけにえの動物はいませんが、教会の維持費や献金を納める制度はあります。それは、施設としての教会を維持し、教会として活動していくために必要なことなのですが、ときどき勘違いして、「わたしはお金を納めていないから、教会に行くことができない」と思ってしまう人がいます。年金暮らしの中で教会にこれまで通りお金が納められなくなったから、教会から足が遠のくというようなことがあるなら、それはまったく残念なことです。むしろ、高齢になって自分の限界や弱さを知り、謙虚になった人たちの心、ただ神にのみ助けを見出し、神に希望を置いて生きる人たちの心こそ、最も尊いいけにえであり、捧げものなのです。教会での奉仕についても同じことがいえます。奉仕するのは尊いことですが、奉仕できないからといって神から離れる必要はまったくないのです。もう力がないというなら、その無力さを神にお捧げしましょう。それこそ、神が最も喜ばれるいけにえなのです。
 神殿から動物や両替商を追い出したとき、イエスの心に燃えていたのは、なんとかして一人でも多くの人を救いたい。すべての人に、「あなたはかけがえのない神の子だ」と伝えたいという熱い思いでした。その愛をしっかり受け止め、神のもとに立ち返ることができるように祈りましょう。

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