バイブル・エッセイ(453)神の右の座に着く


神の右の座に着く
 そのとき主は言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:15-20)
 使徒書には「イエスは天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と書かれていますが、福音書には「主イエスは、天に上げられ、神の右の座に着かれた」と書かれています。イエスが「神の右の座」に着くのを、一体誰が見たのでしょう。誰も見た人はいないはずです。弟子たちは、見ていないのにイエスが「神の右の座」に着いたと確信したのです。きっと、そう確信せざるをえない何かがあったに違いありません。
 一つは、復活したイエスとの出会いの中で、弟子たちがイエスの中に神的な何か、神の国の栄光とも呼ぶべき何かを感じ取ったということだと思います。だから、イエスの姿が雲に隠れたとき、天の一番高い所にまで上げられたに違いないと思ったのでしょう。
 地上にいるうちから、神の国の栄光に包まれていると感じさせる人は確かにいます。例えば、山口教会に住んでおられるルイス・カンガス神父様。今年89歳になられますが、いつも感謝と喜びに満ちあふれた神父様には、何か天的なものを感じずにはいられません。先日も会食の後、真っ先に立ってみんなの食器を洗っておられた神父様。その屈託のない笑顔には、この地上を越えた、何か不思議な輝きが宿っていたように思います。地上にいるうちから天国としっかり結ばれているカンガス神父様のような方は、いつか主に召されれば、きっと天の高くにまで上げられることでしょう。
 もう一つは、祈りの中でイエスを思い出し、イエスと固く結ばれるときに、不思議な力が彼らを満たしたということでしょう。エスと結ばれるときに、天国からのものとしか思えない神秘的な力が心と体を満たすのを感じた弟子たちは、イエスが「神の右の座」に着いているに違いないと確信したのです。
 わたしも最近、似たような体験をしました。テレビ番組に出演したときのことです。初めてのスタジオ収録で極度に緊張したわたしは、頭が真っ白になり、何を話していいまったく分からなくなってしまいました。そんなとき、ふっと「そういえば、マザー・テレサも一度だけ、スタジオでテレビ番組に出たことがあった」と思い、心の中で「マザー、助けて下さい」と必死に祈ったのです。すると、心の底から不思議な力が湧き上がって来て緊張感が消え、いつものように自然に話せるようになりました。わたしはそのとき、マザーが天国にいることを確信しました。天国にいるマザーが、神にとり成して下さったとしか考えられない体験だったからです。
 復活したイエスとの出会いの中で、天の国の栄光を感じ取ったこと。祈りの中でイエスと結ばれるとき、天からの力で満たされたこと。それらの体験から、弟子たちは、イエスが「神の右の座」に着いたことを確信しました。逆に言えば、イエスが「神の右の座」に着いたからこそ、わたしたちは神の国の力に満たされて働くことができるようになったのです。エスが「神の右の座」についたからこそ、わたしたちは神の国の力に満たされて働き、この世界に神の国の栄光を輝かせることができるのです。
 その意味で、主の昇天は、わたしたちの福音宣教の出発点と言っていいでしょう。エスが天の最も高いところにまで上げられたからこそ、わたしたちは地の最も遠いところにまで福音を告げ知らせることができるのです。主の昇天の意味を改めて心にしっかりと刻み、福音宣教のために出かけて行きましょう。