バイブル・エッセイ(1146)神の子として生きる

神の子として生きる

 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ18:16-20)

 三位一体の主日にあたって、イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」といって弟子たちを宣教に送り出す場面が読まれました。「目には見えなくても、わたしはいつもあなたたちと共にいる。何も心配する必要はない」と、イエスは弟子たちに伝えたかったのでしょう。わたしたち一人ひとりにとって、大きな慰めとなる言葉です。
 イエスは、どのような意味でわたしたちと共にいてくださるのでしょうか。日々の生活の中で、わたしたちはどんなときにイエスの存在を感じるでしょうか。さまざまな答えがあると思いますが、わたしは、自分がイエスから与えられた使命、司祭としての使命を果たしているとき、イエスがわたしの中にいて、わたし共に働いていてくださると感じます。ミサを捧げるとき、病気の方や亡くなった方のために祈るとき、イエスの愛について人々の前で語るとき、「いま、これをしているのはわたし自身ではなく、わたしの中にいてくださるイエスだ」と感じることがあるのです。神から与えられた使命を果たしているとき、わたしは神の子として生きており、神の子として生きているとき、わたしはイエスの存在を最も身近に感じる。そういってもいいでしょう。そのようなとき、わたしは自分が父なる神の愛のうちに生きていると感じ、聖霊のたまものである喜びが、心からあふれだすのを感じます。三位一体の神秘に触れるといってもいいかもしれません。
 これは、司祭だけでなく、すべての人に当てはまることでしょう。わたしたちは一人ひとり、神から与えられた尊い使命を持っています。それは、父や母として自分の子どもを守り、育てることかもしれないし、社会の中で自分に与えられた役割を果たすことかもしれません。その使命を、神の子としての使命といってもよいでしょう。自分に与えられた神の子としての使命を生きているとき、イエスはいつも、わたしたちと共におられ、わたしたちと一緒に働いていてくださいます。神の子であるわたしたちの隣に、イエスがいつもいてくださるのです。イエスが共にいてくださるのを感じるとき、わたしたちは父なる神の愛のうちに生かされていることを実感し、聖霊の喜びに包まれます。その体験こそが、三位一体の体験だといってよいでしょう。三位一体は、頭で理解するものではなく、イエスと共に生きることによって、全身で感じるものなのです。
 大切なのは、自分が神の子だということを忘れないこと。神の子としての自分に神から与えられた尊い使命、それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの形で愛を生きるという使命を忘れないことだと思います。疲れていらだっているときなど、悪魔がわたしたちの心に入り込み、「お前なんかダメな人間だ。生きている意味がない」とささやくことがありますが、その声に耳を傾けてはいけません。どんなときでも神の子としての自分を見失うことなく、三位一体の神秘のうちに、神の子として生きていくことができるよう祈りましょう。

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