バイブル・エッセイ(842)本当の幸せ

f:id:hiroshisj:20190217185822j:plain

 本当の幸せ

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:20-26)

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」で始まる、イエスの説教が読まれました。貧しい人、飢えている人、泣いている人たちこそ幸いであると、およそわたしたちの常識と反対のこと説くこの箇所は、人間の幸せとは何かを、改めてわたしたちに問いかけているように思います。
 幸せとは一体何なのでしょうか。今年わたしは48歳になりますが、48歳というのはわたしの父が亡くなった歳で、近頃、父のことをよく思い出します。農家の長男として生まれた父は、とても不器用で、無口な人でした。農業高校を出た後、家の後を継ぎ、畑に温室を建てて園芸農家を営んでいました。花作りは大変な仕事で、朝は5時に起きて水やりをし、一日中、温室で仕事に精を出し、夜はビールを1本飲みながら簡単な食事をして寝るというような生活をしていました。服装はいつも作業ズボンに地下足袋。背広を着るのは年に数回だったでしょう。農家の性質上、休みの日はありません。何年も、何年も、少なくともわたしが覚えている十数年の間は、毎日、まったく同じことの繰り返しでした。そして、最後は心筋梗塞で急に死んでしまったのです。
 それでも、うちの父は幸せだったのではないかと思います。質素な生活ではありましたが、それに不満を言うこともなく、日々黙々と与えられた使命を果たす。そんな自分の人生に満足しているように思えたからです。花が好きだっただけでなく、育てた花を、たくさんの人たちが喜んでくれることも生き甲斐のようでした。「貧しい人は幸い」とイエスが言うときに、その貧しさは、物理的なものより心のあり方を指していたように思います。思い上がって贅沢な生活をしないこと。人と自分を比べて争わず、与えられた自分の使命に満足すること。それこそが、心の貧しさだと言っていいでしょう。「神の国」はそのように生きる人のものであり、そのように生きる人はすでに「神の国」を生きているのです。うちの父は、キリスト教を知りませんでしたが、正しく生きた人であり、実質的には「神の国」の民だったのではないかと思います。
 あらゆる思い上がりや、高望みは、幸せから、「神の国」からわたしたちを遠ざけるということも、心にしっかり刻みたいと思います。わたしたちは、「幸せになりたい」と思いながら、逆のことをしてしまいがちです。幸せになるために富を求め、結果として傲慢になり、たくさんのものを手に入れても心が満たされなくなる。他人のものを、奪ってでも手に入れたいと思うようになる。自分より貧しい人たちを見下すようになる。そのようにして、幸せになろうとして、逆に不幸になってゆく人が多いのです。
「富んでいるあなたがたは、不幸である」という言葉は、わたしたちに向けられたものかもしれません。この説教をゆっくりと味わい、もう一度幸せとは何か、自分は何を目指して進んでいるのかを確かめたいと思います。

バイブル・エッセイ(841)沖に漕ぎ出す

f:id:hiroshisj:20190210191331j:plain

沖に漕ぎ出す

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5:1-11)

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、イエスは漁師たちに呼びかけました。安全な岸辺にとどまり、浅い所に網を投げていても獲れる魚は限られている。思い切って沖に漕ぎ出し、深い所に網を投げなさいということでしょう。人間を獲る、すなわち苦しみの中にいる人たちを救うためにも、「沖に漕ぎ出す」必要があります。自分の身を危険にさらすことなく、安全な岸辺にとどまっていては、福音のメッセージを相手の心の深みにまで届けることはできないのです。
 沖に漕ぎ出すということは、これまで行ったことがない世界、未知の世界に向かって旅立つということです。例えば、今から400年以上前、フランシスコ・ザビエルら宣教師たちは、ヨーロッパから日本に向かって船出しました。嵐にあえば船団が全滅することも珍しくなかった時代の危険な航海の果てに、日本に辿りついた宣教師たちを、人々は感嘆のまなざしで迎えました。そして「なぜ、命がけでここまで来るのだろう。それほどまでにして伝えたいキリストの教えとは、いったい何なのだろうか」と、宣教師たちの教えに熱心に耳を傾けたのです。宣教師たちが投げた網、命がけで伝えた福音のメッセージは、人々の心の奥深くにまで届き、たくさんの人たちが洗礼を受けたのでした。
 わたしたちが、現代の日本で宣教するときにも、ザビエルたちに倣って「沖に漕ぎ出す」ことが必要だと思います。これまで通りのことを、同じように繰り返しているだけでは、決して魚は獲れないのです。「夜通し苦労しましたが、魚は獲れませんでした」と諦める前に、これまで出たことがない沖に向かって舟をこぎ出す勇気を持ちたいと思います。それは、たとえば、いま山口・島根地区が取り組んでいる高齢者のためのボランティア活動かもしれません。わたしたちが高齢の皆さんのところにまで出かけて行くなら、「なぜ、こんなところにまでわざわざ来てくれるんだろう。この人たちを動かしている福音とは、一体何なのだろう」と興味を持つ人たちも出てくるかもしれません。自分の身を省みることなく沖に漕ぎ出し、そこから投げる福音のメッセージだけが、相手の心の深みに届くのです。それは、二千年前にイエスがしたこととよく似ています。イエスが自分の故郷を離れ、貧しい人たち、差別の中で苦しんでいる人たちの中に出かけて行ったように、わたしたちも「沖に漕ぎ出す」ことが求められているのです。
 では、どうしたら沖に漕ぎ出すことができるのでしょうか。イザヤの召命の場面に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という言葉があります。イザヤがこう言ったのは、闇の中で苦しんでいる人々を、何とかして救いたいという神様の愛に心を動かされたからでしょう。人々の苦しみに共感し、神様の思いに触れるとき、わたしたちは沖に向かって漕ぎ出さずにいられなくなるのです。このミサの中で神様の思いをしっかり受け止め、沖に漕ぎ出して、深い所に網を投げられるように、福音のメッセージを届けられるように祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(840)愛の神秘

f:id:hiroshisj:20190203212158j:plain

愛の神秘

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(一コリ13:4-13)


「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない」というパウロの言葉、いわゆる「愛の讃歌」が読まれました。この箇所は、「神の讃歌」と呼んでもいいかもしれません。この箇所の愛という言葉を、そのまま神に置き換えると、神の愛の深さをより身近に感じられるように思います。「神は忍耐強い。神は情け深い。ねたまない。…神は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。神は決して滅びない」のです。 
「愛とは相手を大切に思うこと」「愛とはゆるすこと」など愛についての定義は無数にありますが、どれも不完全で、愛を完全に定義できているとは言えません。愛が神から生まれ、神そのものであるならば、それは当然のことと言えるでしょう。人間が、神を知り尽くすことなどできないからです。わたしたちが言えるのは、愛しているときに、神の愛に突き動かされて生きているときに、人間はこうなる、こう感じるということだけなのです。
 愛には、その根源に神秘があります。例えばわたしたちが誰かを愛するとき、その理由を言葉で説明することができるでしょうか。なぜその人のために、そこまでしなければならないのか。なぜその人のことをそんなに思うのか。なぜ自分を犠牲にしてまで尽くすのか。そう問われても、なかなか答えることはできないのです。それは、愛が人間の思いを越えた世界から生まれて来ることの一つの証拠だと思います。「なぜ愛するのか」と問われても、「愛するから愛するのだ」としか答えようがないのです。
 人間は、どんなに頑張っても、自分の力で愛を造りだすことはできません。例えば、「そろそろ結婚の適齢期が来たから、ちょうどいい相手を見つけて愛そう」と思っても、それはなかなか難しいことです。愛は、誰かと出会ったとき、何の努力もなくわたしたちの心に生まれるものなのです。愛は、造り出すものではなく、与えられるものだと言っていいでしょう。
 例えば、道端で誰かが倒れているのを見たとき、わたしたちは無意識のうちにその人の側に近寄って声をかけるでしょう。重病だと分かれば、担いで近くの病院まで運ぶことだってするかもしれません。ですが、そのとき、わたしたちは自分がなぜそこまでするのかと考えることはないでしょう。心に宿った愛に突き動かされ、自然に体が動いているからです。心に神様が宿り、神様がわたしたちを使ってその人を助けたと言ってもいいかもしれません。
 神の愛の全容を、わたしたちはまだ知りません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」とパウロが言うように、この世界では、まだ完全に神の愛を知り尽くすことはできないのです。やがて復活のときが訪れ、天国で「顔と顔を合わせて」神と出会うとき、わたしたちはそのあまりの大きさ、深さに圧倒されることでしょう。神は、人間の心を通してこの世界に流れ出すすべての愛の源泉であり、愛そのものなのです。愛の神秘を思いながら、愛とつながって生きることができるように祈りましよう。

 

バイブル・エッセイ(839)救いの実現

f:id:hiroshisj:20190127185123j:plain

救いの実現

 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:11-21)

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言います。この文脈では、油を注がれた者、すなわちメシアであるキリストが、今まさに人々の目の前にいるということでしょう。2000年を経てこの言葉を聞いているわたしたちにとっては、聖書を通してイエスが語る言葉を聞き、そこからあふれ出す神様の愛を信じるなら、そのとき救いが実現すると解釈してもよいかもしれません。
 言葉を通してイエスの愛に触れ、それを信じて救われるということを、わたしは講演会の会場でよく目にします。マザー・テレサの言葉を引用しながら、聖書が語るイエス・キリストの愛について説明していると、会場のあちこちで泣き始める方が出てくるのです。例えば、毎日、子どもの世話や家事ばかりで、何もできないままに人生が浪費されると嘆いているお母さんは、「子どもや家族のために愛情を込めてする日々の掃除や洗濯は、途上国のスラム街での奉仕と同じくらい尊く、価値がある」と聞いて安心し、涙を流します。自分は失敗ばっかりで何をやっても駄目。生きている価値がないと思い込んだお父さんは、「たとえ失敗ばかりでも、自分なりに精いっぱいに生きているというだけで、わたしたちの人生には意味がある」と聞いて慰められ、涙を流します。わたし自身もよく体験することですが、神様の愛に深く触れ、安心して心の重荷が軽くなるとき、わたしたちの目からは涙がこぼれるのです。その涙は、神様によって救われたしるしだと言ってもいいでしょう。
「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」というイエスの言葉に、イエスがもたらす救いがどのようなものかが要約されているように思います。「捕らわれている人」とは、さまざまな理由から「自分の人生には意味がない、自分には価値がない」という思い込みの中に閉じ込められてしまった人と考えたらよいでしょう。イエスはその人に、「そんなことはない、あなたは生まれながらに神様の子ども。生きているというだけで、限りなく価値のある存在だ」と告げ、その人を捕らわれの檻から解放します。「目の見えない人」とは、世間の価値観に目を曇らされて、自分の本当の価値が見えなくなっている人とも考えることができるでしょう。イエスは、そのような人の目を開き、神の子としての自分の命の価値に気づかせるのです。「圧迫されている人」とは、競争社会の論理の中で人々から見下され、自分には価値がないと思い込まされている状態だと考えられます。イエスは、そのような人に、「人間の目にどう映ろうと、神様の目にはあなたは限りなく尊い存在だ」と語りかけ、その人を圧迫から解き放ってくださいます。
 わたしたちにも、聖書を取って読み上げる役割、すなわち、聖書を通して自分自身が出会ったイエスの愛を、人々に活き活きと語る役割が与えられています。イエスの愛と出会って救われたわたしたちには、イエスの愛を人々に告げる使命が与えられているのです。聞いた人の心に救いをもたらすイエス・キリストの愛を、力強く語り、伝えることができるよう神様に祈りましょう。

バイブル・エッセイ(838)弱さに寄り添う奇跡

f:id:hiroshisj:20190120183258j:plain

弱さに寄り添う奇跡

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:1-11)

 弟子たちと出会ってから3日目に、イエスはガリラヤのカナで行われていた婚宴の席で最初の奇跡を行いました。すでにぶどう酒に酔った人たちが、さらに飲んで満足できるように、数百リットル(1メトレテス≒39リットル)もの上質なぶどう酒を準備したのです。これは、真面目な印象があるイエス・キリストの最初の奇跡としては、ちょっと意外な感じがします。しかし、弟子たちはこの奇跡を見て「イエスを信じた」のでした。
 水をぶどう酒に変える奇跡は、パンの増やしの奇跡と似ているところがあります。パンの増やしの奇跡のとき、人々が空腹であることに気づいたイエスは、お腹が空いて倒れてはいけないと心配して奇跡を起こしました。どんなに気もちがあっても、お腹が空いては何もできない人間の弱さを、イエスはよく知っておられたのです。そんな人間たちのために、イエスはパンを裂いて弟子たちに渡しました。すると、パンはいつの間にか数千人分に増えていたのです。
 水をぶどう酒に変えたとき、宴会はすでにだいぶ進んでおり、人々はもう酔っていました。ですが、イエスはそんな人々のために、水をぶどう酒に変えました。婚宴の席が白けてしまわないように、若い夫婦が大きな喜びの中で新しい人生を始められるようにという、若い夫婦への配慮もあったでしょう。めでたいこの日くらいは、厳しい日々の生活を忘れて宴会に興じたいという人々へのいたわりもあったかもしれません。健康を害するほど飲んだり、酔って周りの人に迷惑をかけたりすることは当然、好ましくありませんし、お酒なしで済むならそれに越したことはありませんが、ぶどう酒に酔うことで、ときには日常の苦しみを忘れ、喜びに興じたいと願う人間たちの思いも、イエスは否定しなかったのです。召使たちは、大きな甕をいっぱいに満たしたぶどう酒を汲んで人々に配り、おそらく数百人の人々がそれを味わうことになりました。
 ぶどう酒の奇跡やパンの奇跡を見たとき、弟子たちはイエスを信じました。それは、人間の力では不可能なことが目の前で起こったからというのが第一の理由でしょう。ですが、それだけではないと思います。イエスは、人間たちの弱さをよく知り、その弱さを労わって奇跡を起こしたのです。人間の弱さを知り、その弱さに寄り添うイエスの中に、弟子たちが神様の愛を見たことは疑いがありません。そもそも、奇跡自体、見なければ信じられない人間の弱さを知って行われたものでした。イエスは、人間の弱さをよく知りながら、それを否定せず、むしろその弱さに寄り添われる方だったのです。
 今日は、たまたま、教会でも新年会が行われます。普段よりも少し贅沢な食事を頂き、仲間との交わりを深め、喜びの中で新しい年を始めるための集いです。たまにはこのような集まりをしたいと願う人間の心を、イエスはよくご存じです。ぶどう酒は出ませんが、イエスはこのような集いも祝福で満たしてくださるに違いありません。イエスの愛に感謝しながら、喜びの中で共に新年を始めましょう。

バイブル・エッセイ(837)聖霊と火の洗礼

f:id:hiroshisj:20190113141310j:plain

聖霊と火の洗礼

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:15-16、21-22)

 洗礼者ヨハネは、キリストがやって来たなら「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います。自分は水によって罪を清め、人々を神に立ち返らせるが、キリストは、それだけでなく、聖霊の恵みによって人々の心を燃え上がらせるということでしょう。
 では、聖霊の恵みとはいったいなんでしょうか。主の洗礼の場面を読むと、聖霊が鳩のような姿で下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあります。天から聞こえたこの声こそ、聖霊の恵みの核心だと言っていいでしょう。聖霊が降るとき、わたしたちの心に天からの声が響き、「わたしは神から愛されている。わたしの人生には意味がある」と心の底から確信できるのです。神様の愛が、わたしたちの心の奥深くに刻印されると言ってもいいでしょう。この愛の刻印が押されるとき、わたしたちの心は喜びであふれます。生まれてきたことへの感謝と喜び、生きていることの感謝と喜び、すべての罪がゆるされたことへの感謝と喜びで心が満たされるのです。心に、喜びの炎が燃え上がると言ってもいいでしょう。それが、「聖霊と火」による洗礼という言葉の意味だろうと思います。
 わたしたちも、この恵みを受けています。洗礼を受けたとき、わたしたち一人ひとりの上に聖霊が降り、わたしたちの心に「わたしは神から愛されている」という確信が、深く刻印されたのです。幼児洗礼の場合は覚えていないかもしれませんし、成人洗礼でも記憶がぼんやりしているという人もいるかもしれませんが、わたしたちの心に言葉を越えた言葉、聖霊の力によって神の愛の刻印がしっかり押されたことには間違いがありません。祈りの中で心の声に耳を傾けるなら、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が心の奥底から響いてくるのを必ず聞くことができるのです。その声を聞くたびごとに、わたしたちの心は喜びで燃え上がることでしょう。
 日々、この声に耳を傾けたいと思います。洗礼を受けていても、そのことをすっかり忘れ、神の愛に背を向けて生きるなら、せっかくの恵みを無駄にすることになりかねません。洗礼の恵みは、その恵みを本人がしっかり受け止めて感謝することで、初めて生きる力になるのです。朝ごとに、夕ごとに、神様から愛されている喜びをしっかりかみしめましょう。そして、「神様、わたしは、何をしたらよいのでしょうか」と祈りの中で問いかけましょう。そうすることで、わたしたちは神様の心に適う者として、喜びにあふれた日々を生きることができるのです。

バイブル・エッセイ(836)四人目の博士~愛の贈り物

f:id:hiroshisj:20190106215325j:plain

四人目の博士~愛の贈り物

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

 イエスの誕生にあたって、東方から3人の博士たちが贈り物を持って来る場面が読まれました。この三人の博士については、カスパール、メルキオール、バルタザールという名前も伝承されています。でも、実はもう一人の博士がいたという話をご存知でしょうか。その博士の名前はアルタバンと言います。
 アルタバンは三人の博士の親友。博士たちが星を追って旅に出ると聞き、アルタバンも一緒に行きたいと願います。「いいけど、何か贈り物を準備してね」と博士たちに言われたアルタバンは、家に帰って何かよいものはないかと探しますが、家には何もありません。そこでアルタバンは、家を売って、袋一杯の真珠を準備しました。
 真珠の袋を持って三人の博士との待ち合わせ場所に急ぐアルタバン。ですが、しばらく歩くと道端で倒れている男に出会います。哀れに思ったアルタバンは、立ち止まり声をかけました。「強盗に襲われて大けがをし、お金も全部取られてしまいました。どうか助けてください」と男はかすれる声で答えました。アルタバンは男を近くの宿屋に連れて行って介抱しました。でも、先を急がなければならないアルタバン。宿屋の主人に「これを売って、この男の人のために使ってください」と真珠を一粒渡し、三人の博士のもとに急ぎます。
 しばらく行くと、今度は道端でうずくまっているおばあさんがいました。哀れに思ったアルタバンは、立ち止まって声をかけます。「お腹が空いて、もう動けません。1週間も何も食べていないのです」とおばあさんは消えそうな声で答えました。アルタバンはおばあさんを背負って家まで連れて行き、真珠を一粒売って、おばあさんのために食事を準備しました。おばあさんが元気になったのを見届けて、アルタバンは再び三人の博士との待ち合わせ場所に向かいます。
 ですが残念、アルタバンが着いたときには、もう博士たちは出発した後でした。アルタバンは、大急ぎで後を追いかけ、ベトレヘムに辿りつきます。ですが、博士たちは、別の道を通って帰ってしまった後でした。肝心の救い主、イエスも両親に連れられてエジプトに旅立ったとのこと。アルタバンは、イエスに会うためエジプトに旅立ちます。
 イエスを探して旅を続けるアルタバン。もうちょっとでイエスに会えそうな場面は何度もあったのですが、その度ごとに道で困っている人に会い、助けているうちにせっかくのチャンスを逃してしまうのでした。そうこうしているうちに、30年の月日が流れました。
 おじいさんになったアルタバン。袋にたくさんあった真珠も、人助けに使ってしまって、もう一粒しか残っていません。そんなアルタバンの元に、とんでもない知らせが届きます。イエスが捕まり、処刑されるというのです。何とか一目だけでもイエスに会いたいと願うアルタバンは、大急ぎでエルサレムに向かって駆け出しました。
 エルサレムに着いたアルタバン。もうちょっとでイエスに会えると勇んで道を歩いていると、大男に手を引っ張られ、「助けて」と泣き叫んでいる女の子に出会います。アルタバンが大男に事情を聴くと、親の借金の代わりに売られていく途中とのこと。アルタバンは大いに迷いましたが、袋に残った最後の真珠を取り出し、大男に渡して女の子を助けてあげました。ですが、そこまでしたところで、年老いたアルタバンは力尽きて倒れてしまったのです。
 宿屋に運ばれ、休んでいるアルタバンの元に、イエスが処刑されたとの知らせが届きます。アルタバンはがっかりしました。「結局、イエスには一度も会えなかった。家を売って買った真珠も、一粒も渡せなかった。ぼくは何をしていたんだろう。」そう嘆くアルタバンに不思議なことが起こります。寝ているアルタバンの枕元に、イエスが現れたのです。イエスはアルタバンに言いました。「お前は、わたしに一度も会わなかったなんて言ってるが、何回も会ったじゃないか。あのとき道端で倒れていた傷だらけの男、お腹を空かせたおばあさん、泣き叫んでいた女の子、あれは全部わたしだったんだよ。ご覧、お前の真珠は、ぜんぶここにある。」イエスはそう言って、袋一杯の真珠をアルタバンの前にかざしました。アルタバンはすっかり安心し、穏やかな顔で息を引き取ったのでした。
 わたしたちはもう、イエスに直接会うことはできないし、三人の博士のように贈り物を直接届けることはできません。ですが、アルタバンのやり方なら、きっと真似することができるでしょう。わたしたちが誰かのために差し出す優しい心は、必ずイエスのもとに届くのです。黄金、乳香、没薬にも負けないほど素晴らしい愛の贈り物を、イエスの元に届けられるように祈りましょう。